シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

仏教と倫理に関するジレンマと宮沢賢治さん(3)

 宮沢さんは、あまりにも高い大乗仏教の理想とそれを自分自身で実践する道を進むためにその理想を実現するにふさわしい人間にならなければならないとの思い込みから、その理想的自我と、煩悩をもち、その理想を実現するにはあまりにも非力な現実の自我(自己)との間の、これもあまりにも大きなギャップに苦しまなければならなかったと言えます。しかし、理想的自我と現実の自我のギャップに悩むということ自体は、人間誰しにも存在する苦悩なのではないかと思います。だからこそ、宮沢さんのあまりにも「聖」なる志をもったことによって生まれた苦悩に、多くの人が共感的に感情移入することができるのではないかと感じます。

 宮沢さんはどうすればよかったのでしょうか。また、宮沢さんはそのギャップをどのように乗り越えようとしたのでしょうか。そのことを考えていくために、再度、末木さんの「大乗仏教と(道徳)倫理」におけるジレンマ問題についての論考を参照したいと思います。屋上屋を重ねるような作業ではないかとのそしりもあるかもしれませんが、それは、私自身の終活の作業でもあるということでお許しいただければと思います。

 末木さんのことばによれば、宮沢さんが抱え込んでしまった苦悩とは、「菩薩と<空>という大乗仏教の原理」を自分の生き方にしようとしたことによる苦悩であったと言えるでしょう。そしてそのことで宮沢さんは、「(道徳)倫理」に関して解決し難いジレンマ問題を抱え込むことになったのです。その第一は、救うべき存在から救われることを願う存在となってしまうというジレンマです。末木さんは言います、

 第一に、「大乗仏教は確かに衆生救済という高い理想を掲げる。六波羅蜜を説き、ときには布施のために生命をも捨てることを説く。また、衆生救済のために、衆生と同じ病気の姿をも示す。それはすばらしい。しかし、そもそもわれわれ凡人にはそのような高度の救済活動ができるのか。ここに、他者としての救うブッダや菩薩が現れ、われわれは救われるべき衆生となる」のですと。この末木さんの指摘との関連で言及しておくこととなるのですが、宮沢さん誓願は、自分自身が救われる衆生ではなく、自分はあくまで苦しむすべての衆生を救う存在となりたい、ならなければならないというものでした。そのことが意味することとは、宮沢さんであっても神でも仏でもない紛れもない一人の人間であるということを考えれば、それだけ宮沢さんの苦悩は大きかったと言えるのではないでしょうか。

 第二に、「大乗の原理はこの世界を全体として問題にする。『すべての衆生を救う』とか、この全世界が<空>であり<実相>であると説く。そのように世界全体を問題にすると、あまりにも話が大きくなりすぎて、具体的な倫理にはいたらず、倫理は崩壊する。そこでは、どんな悪をもすべて仏の世界の中に吸収され、認められてしまう。その倫理崩壊が超・倫理へと導くこと」になるのですと。宮沢さんも、こうした道徳としての倫理問題のジレンマに陥りかねない危うさを潜在させていたように思えます。そのために、宮沢さんが侵略戦争の積極的な加担者となってしまったかしれない人生上の危機があったのではないでしょうか。

 以上の二点の末木さんの指摘は、大乗仏教だけのことに限られるものではなく、宗教と道徳倫理との間のジレンマに共通するジレンマのように感じます。かつて日本で起きたオウム問題や、現在のパレスチナ問題における究極の反倫理的な戦争という残虐行為にその実例が示されているのではないかと思います。宮沢さんも、どう見ても自分の力だけではどうしようもなく解決不能な理想と現実との間のジレンマとそこから生じる苦悩に喘いでいたのではないでしょうか。そして、だからこそどうしようもない孤独感にさいなまれていたように感じます。

 いったい宮沢さんはどうすればよかったのでしょうか。末木さんは、そのための方向性を次のように指し示します。すなわち、人間という存在は、「あまりに一気に問題を大きくしてしまうと、身近な問題が見えなくなる恐れがある。たとえば、遠くの世界の戦争よりも、自分の子供のほうがよほど気にかかるのが現実だ。もちろんそれは執着であり、それを超えるのが仏教だといえばそれまでだが、それを超えられないところから考えなおさなければ、現実的ではないだろう」とです。

 さらに以下のようにその議論をつづけます。「それゆえ、<人間>の倫理の世界から、超・倫理というどこか飛び離れた世界に移行するとみるのは不適切である。超・倫理といっても、日常とかけ離れたところにあるわけではない。執着したくなくても、執着してしまう日常に目を留めてみよう。そこには倫理的であろうとしても、そうできない自分自身に気づくだろう。日常そのものが<人間>の領域として完結したものではなく、<人間>を超えた超・倫理をはらんでいる。<空>や不二といっても、われわれの日常をもう一度反省し、見直すところから出発するのでなければならない」とです。

 宮沢さんもまた、この末木さんが説いたように、厳しい自然との闘いを教訓に、自分が理想とした極楽浄土建設としての地域づくりの現状とその中での自分の役割について、「もう一度反省し、見直すところから出発」しようとしたのではないかと考えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン