シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

岩手県の風土論(2)

 宮沢さんの目には、岩手の自然は極楽浄土と思える美と聖性を湛えた存在であると映っていたようです。例えば、浄土ヶ浜などはそうなのではないかと思います。浄土ヶ浜に関して言えば、そこは宮沢さんでなくても多くの人たちによってまさしく極楽浄土の風景と受け取られてきたところでしょう。

 渡部さんによれば、宮沢さん自身は、1917年7月に、実業家有志36名の「東海岸視察団」の一員として釜石から船で訪れているとのことです。そのとき、浄土ヶ浜のことを念頭に詠んだのが次の短歌になります。

 「寂光のあしたの海の岩しろくころもをぬげばわが身も浄し」というのがそれです。浄土ヶ浜の風景に触れて身が浄められることを感じとったのでしょう。

 『春と修羅第二集』の中の「五輪峠」という作品では、その心象風景を次のように表現しています。

 「みちのくの/五輪峠に/雪がつみ/……/地輪水輪また火風/空輪五輪の塔がたち/……/菩薩(ぼさつ)のこころに障碍(しやうげ)なく/五の空輪を転ずれば/常楽我浄の影うつす」と詠っているのです。

 岩手県の自然美の風景が極楽浄土の風景を映しだしているだけではありません。岩手県に住んできた人たちが自分たちの生きている世界に極楽浄土世界を築きあげようとしてきた歴史もあるのです。

 その代表的な試みが、奥州藤原氏三代にわたる平泉における仏国土建設試みであったのではないでしょうか。『平泉』という平泉の観光パンフレットにはその歴史が詳しく掲載されているのです。異色の観光パンフレットのように思います。

 そのきっかけは、パンフレットによれば、前九年後三年の役の悲惨な戦争経験から藤原氏三代の初代となる清衡さんが、「非戦の決意から」「中尊寺を建立」したことによります。その「中尊寺建立供養願文」には、宮沢さんの岩手県における仏国土建設の願いと祈りと同じ心が記されています。パンフレットには、その抜粋が、大矢邦宣さんの口語訳で次のように掲載されています。

 「鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える 

 攻めてきた官軍(都の軍隊)もまもった蝦夷も 度重なる戦いで 命を落としたものは 古来幾多あったろうか いや みちのくにおいては 人だけではなく けものや鳥や、魚、貝も 昔も今もはかりしれないほど犠牲になっている 霊魂は皆 次の世の別な世界に移り去ったが 朽ちた骨は塵となって 今なおこの世に憾みを遺している 鐘の音が大地を動かす毎に 罪なく犠牲になった霊が 安らかな浄土に導かれるますように」

 そうした平和祈願とあらゆる人々および自然との共生思想を基調とした清衡さんの仏国土建設が、パンフレットには、「平泉は、浄土を目に見える形にすることで『心の平和』を呼び起こそうとする空間」づくりであったと評価されています。

 この「心の平和」を呼び起こす空間づくりは、藤原氏二代目の基衡さん、三代目秀衡さんに引き継がれていきます。基衡さんの時代に毛越寺の建設が始まり、秀衡さんの時代に完成します。さらに、秀衡さんの時代には、京都の平等院鳳凰堂より大規模であると言われている無量光院など、仏国土の建設が完成の日の目を見るのです。

 形は違いますが、宮沢さんの仏国土建設の願いに先立って、すでにこの世に極楽浄土の仏国土を建設する夢を形にしていた人たちがいたことを宮沢さん自身はどのように感じていたのでしょうか。残念なことにそのことに関する直接の資料や研究はまだ目にしていません。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン