シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

岩手県の風土論(3)

 渡部さんによれば、宮沢さんは、明治43年に修学旅行で平泉を訪れているのだそうです。そのとき中尊寺について次のような歌を詠んでいるとのことです。

 「七重の舎利の小路に、蓋なすや緑の燐光。/大盗は銀のかたびら、をろがむとまづ膝だてば、赭のまなこたゞつぶらにて、もろの肱映えかゞやけり。/手触れ得ず十字燐光、 大盗は礼して没(き)ゆる。」(「中尊寺〔一〕」。

 「白きそらいと近くして/みねの方鐘さらに鳴り/青葉もて埋もる堂の/ひそけくも暮れにまぢかし/僧ひとり縁にうちゐて/ふくれたるうなじめぐらし/義経の彩ある像を/ゆびさしてそらごとを云ふ」(「中尊寺〔二〕」)というのがそれらだということです。

 さらに蛇足的に記しておくとすると、「中尊寺金堂の手前料金所の裏に『中尊寺〔一〕』の詩碑がたっている」(渡部さんの前掲書)のだそうです。ただし、現在「料金所」は別のところに移っているのではないかと思います。

 これらの歌が詠まれたときは、宮沢さんはまだ岩手県仏国土を建設する夢を抱いてはいなかったでしょう。しかし、それでも、中尊寺が立っている場は、大物の盗人が何物をも盗むことなく「礼して没ゆる」ような荘厳な空気が存在していると宮沢さんには感じられたのでしょう。

 さらに、新たな武士の世を建設するために挑んだ義経の精神も宿っている場でもあると、宮沢さんは感じとっていたようです。これらの経験が、のちに宮沢さんにどのように作用したのか、知る由はないのですが。

自然と人間の労働と生活が織りなす生活風景の美しさに魅了されていることも宮沢さんの岩手県の風土論のひとつです。とくに小岩井農場の心象風景が宮沢さんを魅了したようです。

 『春と修羅第一集』にはその心象風景が次のように表現されています。

 「それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね/すみやかなすみやかな万法流転(ばんぽふるてん)のなかに/小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が/いかにも確かに継起(けいき)するといふことが/どんなに新鮮な奇蹟だらう」

 「さうです 農場のこのへんは/まったく不思議におもはれます/どうしてかわたくしはここらを/der heilige Punkt と/呼びたいやうな気がします/この冬だって耕耘(かううん)部まで用事で来て/ここいらの匂(にほひ)のいいふぶきのなかで/なにとはなしに聖(きよ)いこころもちがして/凍えさうになりながらいつまでもいつまでも/いったり来たりしてゐました」

 小岩井農場の生活風景を詠った宮沢さんのこれらの歌を読んでいると、宮沢さんがいかにその美しさと聖性に惹きこまれて行っているかを読者もまた感じることができるのではないでしょうか。

 そして、宮沢さんは。また、そうした生活風景を可能にした岩手県の自然と人間たちの精神性の美しさを感じていたのではないでしょうか。そう感じることができたからこそ、岩手県は自分が仏国土を建設するにふさわしい場であると確信することができたように思われます。

 岩手という地は、宮沢さんには、まさに自然と人間との対等な対話の中から創造されてきた世界だったのではないかと想像します。そして、宮沢さんはそうした岩手の地をイーハトヴと命名しています。

 火山によって飛ばされてきた岩の世界から人と自然の対話によって切り開かれ、創造されてきた地であり、仏国土建設にふさわしい地であるという思いが込められている命名だったのではないかと感じます。さらに、イーハトヴは宮沢さんの心象世界に存しており、仏国土建設に向けての宮沢さん自身の思考実験のための場としての意味をもっていたのではないかと考えます。

 宮沢さん自身、イーハトヴを次のように解説しています。

 「イーハトヴは一つの地名である。強(しひ)て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。実にこれは著者の心象中に、この様な情景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である」(「注文の多い料理店」の広告ちらし)のです。

 日本岩手県は、まさしく宮沢さんにとって、「心象中」のドリームランドだったのでしょう。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン