シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

岩手県社会のはじまり、はじまり(1)

 社会学は、私たちが生きているこの世界は主に人間の集団生活の歴史として創り出されてきたものと捉えます。そして、それは、決して平和的で、穏やかな過程としてあったのではなく、ときに目を覆いたくなるような悲惨な闘争の歴史的過程でもあったと理解してきたのです。社会的コンフリクト、それがその現象を表現する用語となります。

 それに比べると、宮沢さんの私たちが生きている世界の創造史に関する理解ははるかに壮大です。それは、宇宙の歴史そのものとして存在しているというのが宮沢さんの把握の仕方なのではないでしょうか。そして、その宇宙史における私たちが生きているこの世の創造の原動力となっているのが人間と自然の対話であると宮沢さんは見ていたのではないかと想像します。

 しかも、宮沢さんは、宮沢さんが生きていた時代には、この世に仏国土が建設することのできるような条件が生まれつつあると認識していたのではないかと推測します。その認識は、「農民芸術概論」に表明されていたのではないでしょうか。

 「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい/われわれの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった/近代科学の実証と求道者たちの実験とわれわれの直観の一致に於いて論じたい/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない/自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する/この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか/新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある/正しく生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである/われわれは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」というようにです。

 これは、人々の自我の意識が宇宙という集団社会に進化することで仏国土の建設は実現するものと宮沢さんが捉えていたことを示している宣言的文章なのではないでしょうか。そしてまた、宮沢さんが生きていた時代にそうした可能性が生まれていると宮沢さんが感じていたことも、この文章は示してくれていのではないでしょうか。

 その進化の岩手県における出発点を描こうとした作品が、「狼森と笊森、盗森」ではなかったかと思われます。その書き出しは次のように始まります。

 「小岩井農場(こいわいのうじよう)の北に、黒い松の森が四つあります。いちばん南が狼森(オイノもり)で、その次が笊森(ざるもり)、次は黒坂森(くろさかもり)、北のはずれは盗森(ぬすともり)です。」(谷川徹三編『童話集風の又三郎 他十八篇』岩波文庫)。

 「この森がいつごろどうしてできたのか、どうしてこんな奇体な名前がついたのか、それをいちばんはじめから、すっかり知っているものは、おれ一人だと黒坂森のまんなかの大きな岩が、ある日威張ってこのお話をわたくしに聞かせました。」というようにです。

 その始まりは、岩手山の噴火です。宮沢さんによれば、「ずうっと昔、岩手山(いわてやま)が何べんも噴火しました。その灰でそこらはすっかり埋まりました。このまっ黒な大きな岩も、やっぱり山からはね飛ばされて、今のところに落ちて来たのどそうです。/噴火がやっとしずまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南のほうからだんだんはえて、とうとうそこらいっぱいになり、それから柏(かしわ)や松もはえ出し、しまいには、いまの四つの森ができました。」

 その後、そこに、四人の百姓と彼らの家族という人間たちがやってくるのです。「四人のけらを着た百姓たちが、山刀(たち)や三本鍬(さんぼんぐわ)や唐鍬(とうぐわ)や、すべて山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて、東の稜(かど)ばった燧石(ひうちいし)の山を越えて、のっしのっしと、この森にかこまれた小さな野原にやって来ました。」

 百姓たちは、地味を調べ、そこで暮らすことを決めます。そして、彼らは一斉に森たちに呼びかけます。

 「ここへ畑起こしてもいいかぁ。」/「いいぞぉ。」森がいっせいにこたえました。/みんなはまた叫びました。/「ここに家建ててもいいかぁ。」/「ようし。」森は一ぺんにこたえました。/みんなはまた声をそろえてたずねました。/「ここで火をたいてもいいかぁ。」/「ようし。」森はいっせいにこたえました。

 これらの四人の百姓と森たちとの対話的やりとりこそ、宮沢さんにとって、イーハトヴとしての岩手県社会のはじまりだったのではないかと思います。その後、四人の百姓と彼らの家族たちは文字通り森たちとの対話的学びをとおして、自分たちの社会建設をしていくことになるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン