シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

安家村俊作さん(4)

 ここまで1847年と1853年の二度にわたる南部三閉伊一揆について、その一揆を主導した一人である俊作さんとの関係に焦点を当てて見てきました。では、それは、宮沢さんを理解するということとどのような関係があるのでしょうか。結論から言えば、地域社会における権力構造という視点から見たときの、地域の有力者層の人たちと一般農民の人たちとの関係について考察するための比較対象として南部三閉伊一揆を取り上げる意味があるということです。

 とくに一揆を起こすことに対するその主導者の人たちの茶谷さんのことばで言えば「気概」が、宮沢さんの窮乏していた農民の人たちの救済をふくむ仏国土建設へ向けての精神と共通しています。茶谷さんによれば、一揆指導者の人たちは、「われ万人のために死なん」との気概があったのです。しかも、実際に、南部藩における一揆史においては何人もの人たちが死んでいたのです。茶谷さんの著作に出会ったことで、宮沢さんの人のために死ぬという精神は一人宮沢さんだけのものではなく、すでに宮沢さんの同じ郷土の先人の中に存在しており、それが潜在的にではありますが、宮沢さんに継承されていたのだなということを知ることができました。感謝です。

 そして、南部三閉伊一揆の主導者の人たちが示したそうした「気概」は、社会学的に見れば、南部三閉伊一揆の思想といってもよいのではないかと思います。それを踏まえて南部三閉伊一揆の思想とはどのようなものであったのかについて考察しておきたいと思います。それは、南部三閉伊一揆勃発までの経過の中における俊作さんをはじめとする一揆主導者の人たちが書き残した彼らの次の三つの「現状認識」の記録によって素描することができるのではないかと考えます。その三つの「現状認識」とは、キーワードによって記すならば、「天下の民」である百姓の惨状、「御政治外に願ふことなし」、そして「御百姓共大迷惑」というものでした。

 安家村の俊作さんは、克明な日記を残しています。それは、俊作さん21歳の年から書き始められたものです。その年俊作さんのお父さんが亡くなり、一家の生活を担う責任が俊作さんの肩にかかった年だったということです。その俊作さんがどのような思いで一揆の主導者となっていったのか、他の一揆主導者の人たちの書き残した記録も参照しながら辿ってみたいと思います。

 まず俊作さんが生きていた時代の飢饉の惨状について彼がどのような記録を残していたかについて確認しておきたいと思います。まず1833年の飢饉の状況に関する日記の記述を参照したいと思います。そこには、

 「異常な低温・冷雨の連続によって、ほとんどすべての作物が壊滅的な打撃をこうむった状況が、淡々と書き綴られている。栽培作物だけでなく、動植物の生態にまで異常がおこっていることにも目がむけられてい」ます。

 また、「この年、盛岡周辺では、都市の貧民を中心に多数の餓死者が生じた。その数は数千人に達したといわれ」ます。さらに注目すべきは、そうした惨状の記述と「同時に、このような異常気象の中にあっても、大小の麦、蕎麦などの作物が一定の収穫をあげていることに、俊作は目をとめている。適地適作こそが、凶作を防ぐ不可欠の道であることを感じとっているので」す。

 しかも、「俊作の目は藩境をこえて領外に広がり、このような惨状が全国一率のものではなく、九州と四国、加賀国ではむしろ豊作だという状況に着目している。そして、俊作の関心は、穀物の相場が地域によってはげしく変動する事実にむけられ」ていたのです。

 以上が茶谷さんによって紹介された当時の飢饉の惨状に対する俊作さんの向き合う目線です。そしてその目線は、実に冷静に現状を認識し、自分たちの手で何とか冷害や冷雨にも負けない農業生産のあり方を探究し、自分たちの生活を確立しようとする志のあることを示していると思います。宮沢さんの場合はどうだったのか、そうした関心も浮かんできます。そのことについてはあらためてチャレンジしてみたいと考えます。

 俊作さんのことにもどれば、そうした飢饉の惨状に対する認識をしていた俊作さんは、では自分たちを支配している政治にはどのように向き合おうとしていたのでしょうか。次にそのことを確認してみたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン