シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

安家村俊作さん(5)

 俊作さんをはじめとする南部三閉伊一揆の主導者の人たちは、南部藩の政治にはどのように向き合っていたのでしょうか。この点に関して、茶谷さんは、「安家村とはさほど遠くない軽米(かるまい)の豪農淵沢円右衛門」さんが遺言として残した『軽邑耕作鈔』の序文の最後の歌をあげて論じています。それは次のような歌です。

 耕して食ふべし

  衣べし 凌ぐべし

 御政治外に願うことなし

 そして、この歌の意味とは、「自ら大地を耕して、食物と衣服と住居を得よ。これさえかなうならば、政治にはもう何も望むことはない(吉沢典夫氏訳)」なのだそうです。さらに茶谷さんはこの歌の意味を次のように敷衍するのです。

 「ここには寒冷の風土にたえて生き抜こうとする決意と、政治向きには何ものをも期待しないという不信感とをあわせた厳しい自律心が吐露されている。それは藩政に対する強い不信感を一揆蜂起という行動に具体化した三閉伊通り民衆に共通するものといえよう」というようにです。

 事実、当時地域の人たちの生活が立ち行くようにすることに責任を感じていた地域の有力者層の人たちは、どうしたら自分たちの力で暮らしていくことができるようになるのかを真剣に探究しているのです。その探究の方向性は、以下の二つだったようです。ひとつは、自分たちの地域で生活することができるようになるための産業の創造の道の探究です。ふたつ目が、そでもなお確実に襲ってくることになるであろう飢饉に地域ぐるみで協力し、共同して備えるというものです。

 後者に関しては、豊作のときに、個人的にではなく、地域コミュニティごとに天候不順による飢饉などのときのために食料を備蓄するという対策をとっています。そしてこの飢饉への備えが一揆のときには多くの農民たちが長期にわたって強訴に参加することを可能にした物質的資源となったのです。すなわち、南部三閉伊一揆は、ただ怒りにまかせた衝動的・突発的なものではなく、綿密に練られた計画的なもので、さらに一揆を実現するための長い間の準備があって実行に移されていたのです。

 前者に関しては、地域の有力者同士がネットワークをつくり新たな産業を創造することを進めていくと同時に、既存の農業経営のあり方を自然災害に強いものに改良する道を探究しようとしていたのです。

 その営農方法改良のための探究とは「適地適作」の研究です。茶谷さんによれば、「くりかえしおそってくる気象災害を前にして、それぞれの作物の適地適性をこまかく分析し、被害を最小限にくいとめる営農方法を探究」していたのです。その研究成果が淵沢さんが著した『軽邑耕作鈔』だったのです。俊作さんの関心も淵沢さんと共通していたのではないかと茶谷さんは推測しています。

 南部三閉伊一揆が勃発したのは、宮沢さんが誕生した年からさかのぼること約50年前のことでした。それは、宮沢さんが考えていた岩手県社会における極楽浄土建設のための宇宙史規模における歩みの歴史から見れば、ほんの一瞬の時間的経過でしかありません。すなわち、宮沢さんの先人たちはときの権力者の政治に頼ることなく自律的に度々襲ってくる自然災害に地域全体で自分たちの知恵と創造力を駆使して一致協力して立ち向かっていたのです。その状況は、飢饉に苦しむ地域の農民の人たちのために孤憤奮闘しなければならなかった風景とは全く違う風景でした。ほんの一瞬の時間的経過の中で何がどのように変化してしまったというのでしょうか。また宮沢さんの凶作やそのことによって起こる飢饉への向き合い方はどのように評価できるものだったのでしょうか。後にそれらのことについても考えてみたいと思います。

 ここでは、そうした南部三閉伊地域の人たちが、どのような形で、自分たちの自力と自律による厳しい自然災害との闘いを支援するのではなく、反対にそれに寄生し、無にするような政治をつづけていた領主に闘いを挑んでいったのか、そのことを確認しようと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン