シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

安家村俊作さん(1)          

 今回、岡本公樹さんの著した『東北不屈の歴史をひもとく』を読んだことで、関心をもった岩手県の農民の方々の歴史、とくに大飢饉や領主の苛斂誅求的政治にどのように向かい合ってきたのかについてもう少し詳しく知りたいと思うようになりました。そのために手に取ってみた本が、茶谷十六さんの『安家村俊作 三閉一揆の民衆像』でした。この本から宮沢さんと岩手県の農民の方々との関係について少しでも考察を進めることができるようになればと願ってのことです。

 今回参照する『安家村俊作』の著書の著者茶谷さんは、執筆当時民族歌劇団わらび座に所属している方です。そのわらび座は、1980年に創立20周年記念として、『東北の鬼』という歌舞劇を公演しています。それは、弘化・嘉永南部三閉一揆を素材とする歌舞劇です。茶谷さんは、その公演のため、約二年間の基礎調査を行い、その後も南部三閉伊一揆、とくにその一揆を主導した俊作さんという人物に惹かれ、研究をつづけた方です。その研究成果が『安家村俊作』民衆社、1980年なのです。また、宮沢さんに関心をもったことで、よい本に出会うことができました。

 それにしても一つの歌舞劇の公演のためにこれだけの基礎調査をしていることにただただ驚きました。ほとんどそれは研究者の仕事のように感じます。しかも、問題意識と対象のリアリティに迫る感性と粘り強さにも尊敬の気持ちをもちました。

 また、茶谷さんによって紹介されている俊作さんという人物像にも、社会学の視点から見て、非常に興味を掻き立てられました。それは、俊作さんが当時の農民階層の中では最上位に位置する村役人階層の人だったということです。

 学生時代に学んだ地域社会学の中では、そうした階層の人は、近世時代の国家体制における地域の末端支配の役割を担っている人だったはずなのです。すなわち、そうした人は、幕藩体制における封建領主の意向を受けて、自分が受け持っている地域の民衆層の人たちを支配する側の人だったはずなのです。民を支配する人、それが村役人の公式の役割だったはずなのです。

 それが、南部三閉一揆の場合には、地域支配の末端の支配を担っていた人が自分の主人に抗い、その首謀者となって闘いを挑んだのです。彼の村役人の立場から言えば、一揆を起こそうとする農民たちを取り締まらなければならなかったはずなのです。それが、なぜ支配者層の一員であった俊作さんは、まったく反対に、自らの主人に抗い、農民たちをまとめ、大集団で自分の主人に闘いを挑むことになったのか、社会学的には大いに関心が湧きたちます。

 南部三閉伊一揆は、開始のときの声があがったのは、1947年11月19日です。それに先立つ1939年2月に、俊作さんは、「老名・組頭役を仰せ付けられ」ています。そして、その翌年、1940年2月に、俊作さんは、肝入に任命されたのです。「弱冠三十一歳、青年肝入俊作の誕生」です。その肝入となった僅か7年後には、俊作さんは、南部三閉一揆の主導者として地域の農民たちの先頭に立って封建領主であった南部藩に闘いを挑むことになっていくのです。

 では、なぜそうした事態となっていったのでしょうか。社会学的に考察すると、以下の三点が大きな要因だったのではないかと推測されます。第一の点は、村役人とは、封建領主の農民支配機構の末端の支配機構の担い手という側面があるものの、しかし他方では、自分も含め地域の農民たちの代表者として、当時の地域住民の共同の生活機構であった村落共同体の代表者であり、地域の人たちの生活が成り立つよう、そして豊かになるように舵取りをしなければならない責任を負っていた存在でもあったということです。

 しかも、一揆に先立つ年は、天候不順による凶作と飢饉がたびたび襲ってきていた時代でした。そうしたとき、俊作さんは、地域の農民の人たちの惨状を直接目にし、協力してその惨状を何とか乗り越えようとするさまざまに奮闘してきていたのです。そこには、宮沢さんが宮沢さんの目の前で起こっていた惨状を何とかしなければと奮闘していた姿と重なる俊作さんの映像が浮かび上がってきます。

 第二の点は、俊作さんは、単なる農民ではなく、近代産業にも通じる当時の新産業の担い手である商工業者であったことです。茶谷さんによれば、「俊作は、南部藩野田通りの寒村安家村の百姓の息子として生まれた。代々老名・組頭をつとめる草分け百姓の家をつぎ、母は、酒・塩・鉄等の新しい産業にたずさわって勢力をのばしつつある宇部の新興商工業者小田氏の娘であった。草分け百姓としての誇りと、新興商工業者の開明性をうけつぎ、村落共同体的結合のきわめて強固な安家村の一員として育った」人だったのです。しかも、当時、支配者であった南部藩は、もはや農民からは藩財政を立て直す資金を搾り取ることができないと見るや、新興の産業の担い手に襲いかかってきたというのです。

 第三の点は、支配者層の人たちの度を超したモラルハザードです。当時の支配者と民との関係においては、天候不順などによって飢饉となったときには、税を免除し、むしろ救済の手をさしのべることが当たり前だったのですが、南部藩は、民の餓死をもふくむ窮状に一切お構いなしに徴税を強制していったというのです。それだけではなく、粗悪な銭を鋳造し、銭の価値を低下させただけでなく、自分たちがお金を受け取るときは新たな価値に見合う銭を要求し、支払うときは、価値が切り下がっているにもかかわらず、額面通りの銭でしか支払わなかったのです。しかも、それらの差額でえた利益で、私服を肥やしていたのではないかと茶谷さんは指摘しています。

 そうした為政者の行状の下で、自分たちの暮らしと命を守っていくために、一揆は起こるべくして起きていったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン