シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

安家村俊作さん(2)

 南部三閉伊一揆は、南部藩支配下の三閉通り地域(「野田・宮古・大槌の三通りをふくむ三陸沿岸全域」)の百数十カ村」の「一万六千名」、当時のこの地域全人口6万人の約25%以上に相当する人々が参加した、壮大なものでした。そして、その壮大な一揆を主導したのが、安家村の俊作さんをはじめとする三陸沿岸地域の村々の指導的な社会的地位にあった村役人層の人たちだったのです。

 ではこの一揆は政治的視点で見るとどのように性格づけすることができるのでしょうか。この点では、南部三閉伊一揆は、何らかの政治思想による自分たちの政治支配の実現を目的とするものではなく、あくまで自分たち民の日々の暮らしを第一義的に心配し、考えてくれるような領主への転換を願い出るものであったと言えます。それは、沖縄県の民衆の人たちの琉球時代における政治への関わり方、すなわち苦世ではなく甘世であることを願うという姿勢と重なるものがあります。

 それは、南部三閉伊一揆に至るまでの前史がどのようなものであったかということに示されています。当時の農民一揆は、一揆ではあるのですが暴力的な実力行使によって領主支配を打倒するというものではなく、あくまで自分たちの生活が成り立つよう、または救済米などにより飢餓の窮状を救ってくれるよう領主に訴えでるというものでした。その訴えを聞き届けてもらえるようにとられた手段が、より多くの農民たちが一揆に参加するという数の論理だったのです。茶谷さんの著書の中ではそれは「強訴」という用語で記述されています。

 それでも、当時は、領主の政治に口を出し、自分たちの生活要求を掲げて数を頼みに訴え出ることだけでも、犯罪だったのです。訴えでの要求に利があり、その訴えを領主が認め、受け入れざるをえなくなった場合でも、一揆を先導し、組織した者は、死罪をふくむ厳しい罰が与えられたのです。すなわち、一揆を起こすということは、とくにその主導・首謀者になるということは命がけのことでした。

 凶作と飢饉が度々襲った天保年間はその一揆が激発した時代でした。「天保元(千八三〇)年から九(一八三八)年までのわずか九年間に、南部藩では実に七十件を越える闘争が起こっている。しかも、その内の二十数件が、天保七(一八三六)年十一月から翌年一月までの三カ月間に集中して」いたのです。それは、「大凶作の被害と銭札乱発による経済恐慌が、民衆生活を極限まで追いつめ」ていったからなのです。

 そして、その「中心をなしたのが、盛岡南方一揆とよばれる一連の強訴事件」でした。すなわち、それは宮沢さん家族が生活していた地域でもあったのです。すなわち「盛岡南方――和賀・稗貫郡一帯」においても天保年間は一揆が激発していたのです。なぜならば、この地域は、「山岳地の多い南部藩領内ではただ一つの広大な平野部で、領内第一の穀倉地帯であった。そのため年貢等も格別多く賦課されたが、凶作の被害にあえぐこの年、穀改めの役人たちが村々をめぐり、穀類はもちろん、味噌から大根の干葉にいたるまでを取り調べ、取りたてた」のです。それは、「農民たちは、文字通り『絶窮』状態であり、愁訴以外に生活を守る方途をもたなかった」のです。

 そして、この一揆のとき、南部藩は狼狽し、その掲げた要求をほとんど認めざるをえなくなったのですが、一揆が収束するやいなやそれらの約束を反故にし、一揆を企て組織した者たちを厳罰に処していったのです。茶谷さんは記述します。「一揆が帰村すると、免許はすべて取り消し、前よりもいっそう厳重な取り立てをすすめるとともに、一揆再発を防止するため首謀者を探索し、これをとらえて打首・追放・所払いなどの重刑に処した」のですと。

 この盛岡南方一揆から灼10年後に俊作さんが主導した南部三閉伊一揆が勃発することになるのですが、その時には、この盛岡南方一揆の顛末の教訓が活かされた戦略・戦術が採用されることになっていくのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン