シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

安家村俊作さん(3)

 1837年1月、再度、盛岡南方一揆が起こるのです。しかし、この一揆が前年のときは異なり、仙台領伊達藩に対して訴えを行ったのです。すなわち、「南部・伊達藩の境にある鬼柳番所が、多数の百姓たちによってうちやぶられた。番所をやぶり藩境を越えて仙台領に入った百姓たちは、相去番所におしよせて救いをもとめた」のです。

 それは、「五通二十四カ村の百姓たちであり、その数は二千百余人にのぼった。いずれも前年暮の盛岡強訴に加わった南方の百姓たち」によって起こされた一揆だったのです。そして、そうした盛岡南方の農民たちによる伊達藩に対する救済を求めての強訴という一揆の形は、その10年後、安家村の俊作さんらが率いる南部三閉伊一揆に引き継がれることになるのです。

 「南部三閉伊一揆とは、正確にはこの弘化四(1847)年の遠野強訴と、嘉永六(1853)年の仙台領越訴の二度の一揆をふくめていう」〔( )内は引用者によるものです。〕のです。すなわち、遠野強訴においては、南部藩への強訴であり、このとき南部藩一揆の要求を受け入れると見せかけ、一揆が収まるや約束をほごにしただけでなく、俊作さんをはじめとする一揆の主導者たちを捕え、流罪などの厳しい処罰を与えたのです。その中で、主導者の一人であった弥五兵衛さんは「捕縛され獄死」しています。俊作さんも捕縛され、流罪となり牛滝というところに追放されています。

 そのため、1853年に再度一揆が起こり、最初の一揆の教訓を活かし、直接南部藩ではなく、仙台領に越訴するという戦術をとることで、二度にわたる一揆の「完全勝利」を勝ち取ることになったのです。この二度にわたる南部三閉伊一揆においてどのようなことがあったのかについて関心をもたれた方は、ぜひ直接茶谷さんの著作を読んでいただければと思います。

 そうした南部三閉伊一揆を、茶谷さんは、次のように評価しています。少々長い引用となるのですが、煩を厭わず全文引用しておきたいと思います。茶谷さんは主張します、

 「三閉伊通り(三陸沿岸の野田・宮古・大槌の三通り、通りは南部藩の行政区画)百数十カ村の村々から一万六千名の百姓たちが強力な指導部のもとに結束し、整然とした組織と秩序のもとで、藩主の更迭と領治の変更をふくむ高い政治要求をかかげて隣藩仙台領に越訴、百数十日にわたるねばりづよい交渉の末、一人の犠牲者も出すことなくほぼ完全に要求を実現したという経過のみごとさは、『百姓は天下の民』『われ万民のために死なん』『鬨(とき)の声は百姓の歌にて候』『南部の家滅ぶるは近きにあり』等々の言葉によって伝えられる一揆指導者たちの気概とともに、日本農民闘争史上の一大金字塔といえよう」とです。

 また、日本近代化にとっての意味に関して茶谷さんは、大仏次郎さんの小説『天皇の世紀』の中の次のような記述を紹介しています。すなわち、アメリカのペリー来航と同じ年に勃発した二度目の南部三閉伊一揆は、「東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起こっていた」という評価がそれです。

 茶谷さんはそうした大仏さんの評価をさらに次のように敷衍するのです。すなわち大仏さんは、

 「ペリー来航とまったく時を同じくしておこった東北民衆のこの壮大なたたかいの中に、日本の民衆自身の手によって準備された近代社会への確かな萌芽を見、日本の民衆自身の手によって打ち鳴らされた夜明けをつげる鐘の音を聞き取ろうとしたのではなかろうか」とです。

 では大仏さんや茶谷さんからそのように評価されている南部三閉伊一揆における一揆の指導者の人たちと一般農民の人たちの関係と宮沢さんと宮沢さんが救おうと奮闘した農民の人たちとの関係を比較すると、どのようなことが見えてくるのでしょうか。それは、社会学的に興味あるテーマです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン