シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

安家村俊作さん(6)

 権力者の政治に頼ることなく自分たちの力と才覚によって自律的に度々襲ってくる自然災害に地域全体で一致協力して立ち向かっていた南部三閉伊通の人々、とくに一揆を主導した俊作さんたちは、どのようなことを契機として自分たちの権力者と対峙し、闘いを挑むようになっていったのでしょうか。

 茶谷さんは、俊作さんの記していた日記の中の「御百姓共迷惑」という記述こそ、その契機となるキーワードであると見ています。それは、天保4(1833)年の東北大飢饉に関わる日記の記述の中で使用されたことばです。その俊作さんの日記の記述は次のようなものです。

 「野田御支配、御年貢御免これなく、皆御上納仕り候。至って御百姓共迷惑罷り有り候。凶作に付き、御役人衆の御通行しげく、諸入用、夫伝馬多し。」

 茶谷さんはこの俊作さんが記した日記の記述のもつ意味に関して以下のように解説しています。すなわち、「ここには、『御百姓共』の生活の窮乏の原因がお上による『御年貢御取立て』にあること、凶作・飢饉の年には当然『御年貢御免』なされるべきであり、『御百姓共』が『御免の筋願い上げ候』ことは当然の権利であること、凶作・飢饉の状況にもかかわらず『御百姓共』の窮状を無視して『御年貢』を『御上納』させ、ことに『御免の筋願い上げ候』にもかかわらず『御免されざる』ことは、『御百姓共』にとって『至って迷惑』『大迷惑』であることが、明確に表明されている」のですと。

 そして、そうした「百姓共」にとって「大迷惑」の政治を行っている南部藩に対する闘争とそのための戦略の基礎となる思想が、「百姓は天下の民」、現代における用語で言い換えれば、百姓こそが「天下(国)」の主権者であるという思想でした。茶谷さんによれば、その思想は、「弘化四(一八四七)年三閉伊一揆の遠野強訴のあと、地下に潜行して一揆の再蜂起を訴えて遊説してあるいた弥五兵衛」さんのことばに典型的に表現されているというのです。ちなみに、俊作さんは、遠野強訴のとき弥五兵衛さんの片腕として「強訴願文」を執筆したという関係にあったそうです。

 その説得のためのことばとは、茶谷さんの解説によれば、次のようなものでした。すなわち、「百姓は天下の民であって、一南部藩の民ではない。南部藩の悪政によって万民が苦しめられている以上、これを改めるには、仙台城下はもちろん、幕府の膝元までも訴え出て、要求を実現しなければならない」のですと。それは、近世社会における天下(国家)の主権者意識の形成であり、その思想に当時の多くの農民の人たちが共鳴し、一揆の参加者となっていったのです。そして、一揆は成功し、仙台藩および幕府の力を動かすことで、南部藩の領主を転換させるという勝利を勝ち取っていったのです。

 ここまで茶谷さんの論述を参照にして近世期における地域有力者層の人と一般農民の人たちの飢饉や一揆という非常時における関係性について考察してきました。そして、その関係性に見られる社会的風景は、宮沢さんが生きて居た時代の同じ地域における有力者の人たちと一般農民の人たち、とくに地主・小作関係にある人たちの間に見られるそれとは全く異なるものでした。

 南部三閉伊一揆時における関係性においては、有力者の人たちと一般農民の人たちが一致団結し、封建領主の悪政に対して闘いを挑んでいました。しかし、宮沢さんが生きていた時代には、宮沢さんが命がけで救おうとした農民の人たち、とくに貧しい階層の農民の人たちはその宮沢さんを白眼視するような関係性になってしまっていたのです。わずか50年の間に、地域の有力者層の人たちと貧しい農民の人たちとの関係性が本当に大きく変わってしまったのです。そして、宮沢さんはその変わってしまった関係性に苦しまざるをえなかったのです。

 ではその大きな社会的変化とはどのようなものだったのでしょうか。結論から言うならば、主要な経済的な搾取と被搾取との関係が、近世社会における封建領主と領内地域の人々との関係から、近代社会における地域内の地主と小作関係を核とする、地主・商業・金融資本対一般農民との関係に移ってしまったということです。そのことが意味するものは、宮沢さんが属していた社会階級と宮沢さんが救おうとしていた貧しい農民の人たちが属していた階級は、社会科学的には敵対的な関係にあったということです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン