シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(3)

 これ以降、三澤さんが発見した「風土」とは何か、そしてそれを発見したフィールドワークの方法とはどのようなものであったかについて参照していこうと思います。その際の関心は、あくまで、三澤さんと宮沢さんの、当時の冷害などの自然災害や農民の人たちとの向き合い方の違いについて考えてみるということにあります。

 そこで、三澤さんのいう「風土」と農業生産との関係や三澤さんおフィールドワークの方法に関しては、『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 3風土産業』の解説を担当している木村信夫さんの紹介に頼ろうと思います。

 木村さんによれば、三澤さんは、当時の「農林業者や知識人は土壌・肥料への関心だけが強く、大気と大地が触れ合ったところに生じる『風土性』への認識がないかあっても幼稚なことを批判」していたのだそうです。さらに、木村さんによれば、三澤さんが言う「風土は『実体』であり風土性は実体のもつ『性質』で」、それが農業生産に大きな影響をもたらしているというのが三澤さんの着眼点であったと紹介しています。

 では、三澤さんは「風土」をどのように論じていたのでしょうか。ここであえて単純化して言うならば、三澤さんの風土論は、大地、大気、そして自地域の自然と向き合い、関りあって生きてきた地域の人たちの生活履歴の三要素を基礎にした理論ではないかと思います。三澤さんは、その議論の出発点で次のように論じます。

 すなわち、風土とは、「大地と大気の接触面」のことである。しかも、その「触れ合ったところはもはや大地でなく大気でもない、触れ合った面、独立した接触面です。それを私(三澤さん)は風土と呼んでいるのです」〔( )内は引用者によるものです。〕。そして次のように議論を次いでいきます。だからと言って、「風土の意味というものを単に大地と大気との両方を一緒にしたもの、すなわち混合物と考えられてはこまるのです。どちらかといえば化合物と考え、その接触の結果、ぜんぜん質の違ったものだということを、ご了解していただきたいのであります」と。

 以上の風土の定義から、三澤さんによれば、畑一枚一枚、または田一枚一枚が独自の風土を有していると把握していくのです。そして、それらの耕地のミクロなレベルから、地域コミュニティ、地方における風土論へと議論を体系的に積み上げていくのです。その詳細について関心をもたれた方は、ぜひ三澤さんの著作集を参照していただければと思います。ここでは、その風土論の中から、ここでの関心に関わる部分だけに限定して参照していくことにしたいと思います。

 まず三澤さんが活躍した戦前の農業恐慌期の農村の窮状にどのように向き合おうとしたのかについて確認しておきます。和田さんによれば、当時の国の政策の基本姿勢は、「匡救」(国語辞典によればその意味は「悪をただし、危険を救う」というものです。)であったそうです。そして和田さんはその姿勢は宮沢さんの冷害等による農村窮乏への向き合い方と共通の性格を有していると次のように論じています。すなわち、国家は国会決議によって冷害、飢饉、経済恐慌にあえぐ人たちを匡(言行の悪いところを正しくする)救(来世、現世での罪、苦患を免れさせる)としている『匡救政策』を行うとし、行ったのである」。

 そしてそれは、宮沢さんの姿勢でもあったというのです。すなわち、宮沢さんは、「いかによい苗を作り、いかに立派な農業者を育てるかを目標にしたもので、病苦をおしての決断であったといえる。したがって『一つの思想運動であったと考えられる。そして思想運動であったが故にそれが挫折することによって、逆に思想としてのの(ママ)栄光がかちとられたのではないか』とすることは賢治と東北地域の農業に関係する人たちが『無上の菩提』への到達を遅れさせ、過酷な状態からの脱出をおくらせることになる。理念と現実との間に宗教心が芽生えたとしても、農家、農村、農業は好転への機会を遠ざけ弱められることになったといえる」(和田文雄『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』コールサック社、2015年)と和田さんは論じるのです。

 ここで和田さんの指摘が宮沢さんの農民の人たちへの接し方とどのように関係しているのかについては、後々にあらためて考察してみたいと思います。ここでは、石灰などの間接肥料により土壌を改良し、肥料設計によって冷害に対抗しようとする方法では、当時の農業と農村の窮乏を救うことはできなかったようだということを確認しておきたいと思います。ましてや農民の人たちの「悪いところ」を正すことで農業と農村の苦境を救うことなどできるものではなかったということなのでしょう。

 では三澤さんは、自分が発見した「風土」概念によって当時の冷害などの自然災害や経済恐慌にどのように立ち向かおうとしていたのでしょうか。そしてそれを農民の人たちはどのように受け止めようとしていたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン