シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

仏教と倫理に関するジレンマと宮沢賢治さん(1)

 ここまで主として1927年に宮沢さんが直面した試練に関する同年8月20日付の作品を参照してきました。ではその作業から宮沢さんに関する何を見出すことができるのでしょうか。この問いに対しては、以下の3点をあげることができるのではないかと思います。第一は、宮沢さんは大きく言えば、宗教における倫理問題を抱え込んでいたということでしょう。第二に、宮沢さんがその建設をめざしていた極楽浄土とはどのようなものであるのかということです。そして、第三に、同じく宮沢さんがめざしていた仏教の革新とはどのようなものであったのかということです。

 以下、これら3点について考察していくことにしましょう。まず、第一の点からです。社会学的に見ると、すべての宗教は倫理における矛盾・ジレンマを抱え込んでいます。なぜならば、宗教とは何であれそれを信仰している人間存在をはるかに越える力・能力・神秘性を追い求める存在だからです。そのことを、ここでは、苦しむすべての「衆生」を救うという宮沢さんがめざした誓願との関係で、ごく簡単に考察していくことにしましょう。当然すべての人の中には、宮沢さん自身、すなわち私(わたくし)という個人存在も含まれます。なぜなら、それが「すべて」という用語の意味なのですから。

 ところで、この世(全宇宙世界)の人間を含むすべての存在の存在様式とは不断に変化するというものです。その変化に対する人間的レスポンスのひとつの様式が科学や宗教であり、さらには倫理です。また、そのことを前提として、社会学は、人間とは、生物的・社会的・宗教的存在であると考えます。さらに、「苦」とは、その人間がこの世の変化へ対応しなければならないことから生じる感性・感情・観性の存在様式の一つであると考えます。

 また、この世(全宇宙世界)の人間を含むすべてのもう一つの存在様式は、それらすべての存在が相互に作用・反作用しつつ関係し合っているというものです。その中で、人間存在の存在様式とは、社会的であるとともに、それゆえ「自我」的存在である、すなわち、この世の自分自身との関係を含むすべての存在との関係性を自-他の関係性として意識することができるというものです。そして、その自-他の関係性を意識することで自己の存在を意識する在り方のひとつが広い意味での倫理です。

 倫理とは、この世のすべての存在の関係性を私個人および人間存在との関係を望ましい・望ましくない、または善悪の評価によって意識的に律するための諸規則(法)または諸規則(法)に関する意識です。その中で、人間の社会的存在と関わる、すなわち、私個人と他の私個人との関係および私個人と社会との関係、そしてある社会と他の社会との関係を律する諸規律(法)は狭い意味での倫理、すなわち道徳です。

 では、倫理的諸規則(法)を評価する望ましい・望ましくない、または善悪の判断とは何に基づいている判断なのでしょうか。社会学は、それは私個人が生きていく中で感じる快苦の感情であると捉えます。そして、道徳を含む倫理的諸規則(法)は、社会生活における諸個人間のその快苦原理を基礎とする感情コミュニケーションによって形成されてくると理解するのです。そのことの意味することとは、私個人は私個人以外の存在と関係することなしに生きていくことは、その存在様式から言ってできないのですが、私個人と関係している存在がすべて私存在にとって「快」の感情を与えてくれるものではなく、むしろ「苦」の感情を生みだす存在でもあるということです。しかも、どのような存在を私個人が快と感じるか、苦と感じるかについては、私個人間で全く重なってはおらず、大小の相違が存在しているがゆえに、すべての人が納得し、快く受け入れることができる倫理的諸規則を生みだすことは、原理的には不可能であるということです。

 これらの社会学的見地を前提として、宮沢さんの誓願である苦しむすべての「衆生」を救うというテーマを社会学はどのように論じていこうとするのかについて言及しておきたいと思います。その宮沢さんの誓願に関して言えば、社会学は、少なくとも、誰が、誰の、どのような苦を、どのような資格と力によって、どのような方法で救済していくのか、そして救済者は救済に際して被救済者に何を求めるのか等の論点項目を考察することになるのではないかと考えます。

 また、苦からの救済には、その性格に関しては、人間世界における現実的救済と人間性会を超越する諸原理によって形成される世界である宗教的世界における精神的救済に分けて論じることができるように思います。例えば、普通に考えれば、自分自身の苦からさえも自分自身の力では救済することができない私個人が、この世のすべての人の、すべての苦を救済することなど、とてもできないことがらだからです。それにもかかわらず、宮沢さんは、宮沢さんだけの力で、苦しむすべての「衆生」を救うという誓願をたてていたのです。

 また、ここでは、人間の存在様式のひとつである自我を社会学はどのように見るのかについて言及しておきたいと思います。それは、宮沢さんが信仰していた仏教とは、社会学的に見ると、その信仰者は自己の自我意識を滅することで無我の境地に至るという悟りをえることをめざしている宗教であると捉えることができるからです。

 社会学は、自我とは、社会生活における諸個人間の感情コミュニケーションによって形成される自分が他の誰でもない自分自身であると認識できる自己内の精神的装置であると把握します。それを踏まえ、社会学は、自我は、自己内における自己と他者との弁証法的関係性によって不断に形成される存在であると捉えます。そして、社会学的に見ると、人は、生きていく中で、その自我という精神的装置における自己性を通して、すなわち自己の欲求・欲望や(自己の夢や希望などを含む)目的・意識性によって、自己の内外の他者性を有する世界との交渉関係を築いていくものなのです。しかし、その交渉関係は常に予定調和的・平和的に進行するのではなく、むしろ常に、ときには厳しい矛盾・葛藤・対立・闘争を生みだしていくものなのです。社会学では、それらをコンフリクトという用語を使って論じてきました。

 その矛盾・葛藤・対立・闘争を和らげ、回避し、平和的な自他の関係性を維持するための社会的装置が、自他の関係性を律する「法」であり、倫理はそれら「法」のひとつなのです。この倫理と宗教(仏教)との関係を自他の関係性における矛盾という視点で哲学的に考察している著作が、未木文美士さんの『仏教VS.倫理』〔ちくま新書、2006年(第三刷)〕です。これからこの著作を参考に、宮沢さんが自己の誓願を実行していくなかで直面していたであろう矛盾・葛藤がどのようなものであったかを見ていくことにしたいと思います。

 

                 竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン