シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

社会学的人間観

 これからいよいよ法華経の布教・伝道者および仏国土の建設者としての宮沢さんの人生の歩みをたどってみようと思います。その手始めとして、ここでは、社会学的人間観について触れておきたいと思います。宮沢さんの人生の歩みを理解するためです。

社会学は人間の精神的生活に限っても、「知情意」の統体的存在として把握します。なぜならば、社会学が研究対象とする人間とは何よりも社会生活における行為主体としての人間だからなのです。

 ところが、近代以降の人間観の特徴は、合理的・科学主義的人間観であるといってもよいのではないでしょうか。この近代的な人間観によれば、人間らしさのシンボルとは知性理性です。私たちが生きている世界の認識にとって最も重視することは事実(matter of fact)です。そして人間個人を思考主体(a subject)として把握します。

 しかし、この思考主体の思考活動とは、社会学的に見ると、実際の社会生活から、そして社会生活の中における人間関係から切り離され、距離をおいた個人の内的な生活世界における活動なのです。

 近代以降の時代は、この個人の内的生活世界における合理的・科学主義的人間観に至上の価値をおくことによって、「理性」の時代と考えられてきました。しかし、そう言うとき、理性という言葉によって意味されるのは、知的なもの、知性的なものに限られ、感情・意志的生活は、むしろ不合理なものとして理性と対立させられてきました。

 この合理的・科学主義的人間観を批判し、人間の他者との関係性における社会的世界における生活活動の主体としての人間観を主張したのが、スコットランドの哲学者であったジョン・マクマレーさんです。

 マクマレーさんは、人間を生活活動の主体として見るときには、理性ということに関しても感情や意志の理性こそが第一義的に重要であると論じていました。「理性とは、自分自身でないものの本性の見地から、意識的に行動する力能のことである」というのがマクマレーさんの理性に関する定義です。さらに言えば、彼は、理性とは自分ではない他者の存在価値を認識し、その価値を大切なものとして関係しようとする力であるとしているのです。

 この人間理性の最高のメディアこそが愛であり、感情や意志に属するものなのです。そしてその正反対のメディアが自己中心的な私欲なのです。私欲は自分以外の外の世界を手段し、道具視するメディアです。すなわち、「わたしたちが、外の世界を自己の私的な欲求満足のために存在していると見做すとき、わたしたちは、自己中心的なの」です。

 マクマレーさんは言います。「感情生活における理性が、わたしたちが生活している世界の真の諸価値の見地からわたしたちの行動を規定する。感情生活の理性が、善と悪、正と不正、美と醜、そして、……(世界の)無限に多様な諸価値のすべてを発見し、示してみせてくれるのである。感情生活の具体的な生の営みにおける人間本性の発展とは、事実としては、感情理性の発達なの」ですと。

 愛はこの感情理性を現実のものとする、すなわち精神的なものを具体的な行動や活動に媒介するメディアです。すなわち、「愛は、人間存在に特徴的、根本的、そして積極的な感情」なのです。しかし、同時にマクマレーさんは、愛という感情は常に理性的であるとはかぎらず、自己中心的で不合理な側面もあるということに注意を促しています。

 愛は、「主観的で不理性的でもあり、または、客観的で理性的でもありえる。他の人に愛を感じているとき、その人が与えてくれる楽しい感情を経験することもできるし、また、自分が相手を愛することもできる。それゆえ、わたしたちは、自分自身に、自分が愛しているのは、本当に相手の人であるのか、または、自分自身でないのかを、問うてみなければならない。……そして、相手を自分と一緒にいてくれて自分を楽しみつづけてくれる道具と考えているのか、相手の存在と現実性をそれら自身かけがいがないものであると感じているのかどうかを問うてみなければならない」のです。

 ここまで見てきたように、人間の意志や感情の理性性を重視するマクマレーさんは、人間の精神的活動を総体的に捉えるためには、単に科学的活動だけに注目するだけではだめで、宗教と芸術活動にも注目しなければならないことを主張しているのです。すなわち、人間の精神的活動とは宗教、芸術、そして科学のそれぞれの活動と相互関連的活動の総体的なものとして存在しているのです。またマクマレーさんは、人間の精神的活動の三つの形態の中で宗教こそが第一義的であると言います。

 それは、マクマレーさんは、人間個人を何よりも行為主体(an agent)として把握する重要性を主張するからです。そのとき、私たちが生きている世界との関係でより重要となるのは行為している人の意志・意図の問題(matter of intention)なのです。この点では、科学的活動は、「自己の利益を第一義的に考え、その自己の利益の極大化のため」に行う行動の中でも働く活動となりうるのです。

 少々長くなりましたが、ここまで参照してきたマクマレーさんの人間の精神活動に関する議論は、宮沢さんが法華経の布教・伝道および仏国土の建設のためにとったさまざまな行動を理解するために大いに参考になるのではないでしょうか。宮沢さんの活動で重視したのは、やはり宗教、芸術、そして科学でした。それらが宮沢さんの活動の中でどのような意味をもっていたのかを探究することも興味あるテーマなのではないでしょうか。

 このテーマに関してさらに言っておくならば、上記の人間の精神的活動の三つの中で宮沢さんが最も重視したのはやはり宗教でした。そのことに関して、『宮沢賢治』の著者である岡田さんが次のような指摘をしていました。それは宮沢さんが生きていた時代の時代・社会認識に関わるものです。

 「賢治の言葉で言えば、現実は偶然盲目的な修羅の様相を呈し、ただ科学によってのみ変革が可能であるように見受けられる。しかし、賢治は宇宙には宇宙意志があって、あらゆる生物を幸福に至らしめるものと信じていた。ただそこまで至らない道程の中で無上道に行きつくための宗教、祈りがあると考えたのであった」のですと。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン