シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

国柱会に入会す

 宮沢さんは1920年の10月に宗教団体国柱会に入会します。そして、その12月に手紙で農林高等学校の友人であった保阪嘉内さんに「今度私は国柱会信行部に入会致しました」と報告するのでした。

 『塔建つるもの―宮沢賢治の信仰』の著者である理崎さんによれば、「『信行部』とは何か。会員募集要項には信行部が会費12円、研究部2円40銭、協賛部は会費なし、となっている。つまり外部協力者が協賛部で、入会するか研究して考えたい者が研究部、信行部は正式会員と考えられる」のです。宮沢さんは入会するときにすでにかなりの確信をもって国柱会に入会したことになります。

 では国柱会とはどのような宗教団体なのでしょうか。『宮沢賢治』の著者である岡田さんによれば、「日蓮主義を唱導する田中智学」さんによって創設された団体です。そして、その活動目的は次のごとくであったといいます。

 「日本建国の元意たる道義的世界統一の洪猷(こうゆう)を発揮して一大正義の下に四海の帰一を早め、用(もつ)て世界の最終光明、人類の究意(くきよう)救済を実現するに努むるを以(もつ)て主義と為(な)し、之(これ)を研究し之を体現し、之を遂行するを以て事業となす」というものでした。

 また田中さんの思想の特徴は、日蓮主義と当時の天皇制国家体制とを結びつけたところにあったそうです。理崎さんによれば、その活動「スローガン『八紘一宇(はつこういちう)』は智学の造語である。『八紘』とは世界、それを『一宇』、一つの家にするという。つまり、世界を日本の国体思想の元に統一しようという」ものです。

 田中さんの思想や行動の背景には、明治維新以降の廃仏毀釈運動によって衰退して行っていた仏教の再興を図る狙いがあったと言われています。廃れて行きつつあった仏教の価値を再び社会に認知してもらうため、その思想も活動も激越なものとなったのだと指摘されています。

 では以上のような田中さんの思想や活動、そしてその思想を体現するため創設された国柱会の活動をどのように評価したらよいのでしょうか。戦後の日本社会に限って言えば、戦前の天皇制国家体制と侵略戦争を美化し、唱導した軍国主義ファシズムの思想と活動であったと厳しい批判に会ってきたのではないでしょうか。

 また田中さんの言動や主張には、宮沢さんの感性や思想とはかなりかけ離れ、矛盾するような激しいものがあったようです。その一つの例として、悪者はどしどし殺してもよいという主張もあったというのです。この点を指摘しているのが、『宮沢賢治法華経』の著者である松岡さんです。その主張とは、

 「今日の様な悪い人間どもは養生も何も入らない、どんどん不養生して早く死んで了(しま)ふがよろしい、養生する要のあるのは、わが身が道の身であるからである。道を損ひ世を害ふような人間なら、ドンドン自殺でも何でもするがよろしい……実は国の害になる様な人間は何とか方法を設けて、ズンズン殺して了ふ様にせねばならぬ。養生などは以ての外である。悪人は何か面白い夢でも見せて居る内に、楽に死ねる様にしてやる方が慈悲である」(『日蓮主義教学大観』)というものです。

 この田中さんの主張に松岡さんは次のようにコメントしていました。「『法華経』に示される不軽菩薩の人間尊重の信仰、それと対極にある無慈悲さが、この智学の言説からみてとれよう。悪人どもは世のため国のためにどんどん殺してしまえ、という智学の主張を目にした時、賢治はいったい何を感じただろうか。虫けらにも同情を寄せた賢治が、かくも酷薄な思想に賛同できたとは到底思えない」のですと。

 宮沢さんは、なぜ松岡さんが指摘するような無慈悲で、酷薄な主張をしていた田中さんが率いる国柱会へ、決して一時の気の迷いではなく、ある意味確信をもって入会したのでしょうか。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン