シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

仏国土建設の夢熱に浮かれて

 宮沢さんは、なぜ、「世界全体の幸福」を探求するという自分の使命感や虫にさえ慈悲を感じる感性をもつような人だったにもかかわらず、戦前の侵略戦争を唱導し、躊躇なく悪人を殺せというような「無慈悲・酷薄」な主張をしていた田中さんの率いる国柱会に夢中だったのでしょうか。

 ただその時期はかなり短期間のことでした。吉田さんが作成した年表でその軌跡を簡単に辿っておきたいと思います。宮沢さんが23才であった1919年の1月に「国柱会館を訪れ、田中智学の講演を二五分聞く」ことをしています。妹のトシさんが肺炎で入院した知らせを受け、看病のため上京したときのことでした。

 1920年の10月には、「国柱会に入会、花巻の市内を唱題して歩く」という、回りの人たちから「奇行」と見られる行動を起こしています。そして、ついに、1921年1月に「上京、国柱会理事高知尾智耀に会う。印刷所の校正係として働きながら国柱会館に連日通い奉仕活動をする」という日々をおくっています。

 しかし、同じ年の8月には、「トシの喀血の知らせを受け、書きためた原稿をトランクに入れ、帰宅」しています。その後国柱会の活動には直接関わることはなかったということです。

 しかし、国柱会への入会時にはその思いは熱狂的なものでした。友人の保阪さんに入会を知らせた手紙にはその熱い思いが記されています。「国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。 従って今や私は 田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。 ……田中先生に、妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従い奉る様に絶対服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終わります」(『校本宮澤賢治全集』)と。

 宮沢さんはなぜこのとき国柱会に対しそれほどまでに夢中になったのでしょうか。この時期は宮沢さんの生涯の中で言えば、高等農林学校卒業後社会との接点を失って悶々のした日々をおくっていた苦悩する時期と重なっていました。その苦悩せる焦りが宮沢さんを国柱会へのファナティックな信仰に走らせたとも言われています。

 『明日への銀河鉄道―わが心の宮沢賢治』の著者である三上さんはそのことを次のように論じています。「苦悩の深まりの中、法華経への信仰はますますファナティックなものになっていった。もはや賢治を支えるものはそれしかなかった。賢治は次第に心の余裕も失い、人間的な広さも失ってゆく。町内を『何妙法蓮華経』の題目を大声で唱えて歩く姿も見られた。浄土真宗の信仰者である父との宗教上の対立もはげしくなっていった」のですと。

 『塔建つるもの―宮沢賢治の信仰』の著者である理崎さんは次のように論じます。「大正デモクラシーの時代は社会主義が隆盛で、労働者の貧困は搾取(さくしゅ)ゆえ、との思想が一般的になっていた。賢治は、家の質屋を訪れる貧しい農民たちをみて、この思想を実感として理解したであろう。貧しい人々の上前(うわまえ)をはねる、その収益が自分の生活を支えていると思うと、居ても立ってもいられなかったに違いない」のですと。

 三上さんと理崎さんでは「苦悩」とは何かという点で強調する中身が違いますが、すなわち、三上さんは進路問題であり、理崎さんは搾取者という被告意識という違いがありますが、苦悩する意識がファナティックな信仰行動にはしらせたという視点では共通しています。しかし、宮沢さんが国柱会に夢中になったのはそれだけのことだったのでしょうか。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン