シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

閉塞と生存競争・争いごと激化という時代状況

 宮沢さんは、なぜ自分の一生を懸けようとするほど国柱会に夢中になったのでしょうか。それは、国柱会こそが当時の「乱れた」社会を変革し、宮沢さんの夢であった仏国土建設を実現してくれると期待したからではないでしょうか。しかもその実現の時は真近に迫っていると感じていたように思えます。いよいよ自分が必要とされ、活躍できる場がえられるとの希望が膨らんでいたのではないかと推測します。

 それだけ当時の時代と社会状況は何らかの社会変革へ向けての機が熟しつつあったのです。当時第一次世界大戦後の空前の経済的状況が後退し、世界恐慌の兆しが見えてきた1920年代末以降になると日本は、経済的・政治的に暗いトンネルの中に突入していくことになります。

 労働運動・争議や農民運動・小作争議が頻発し、民主主義、自由主義社会主義思想の影響も広がりを見せていました。しかし、一方では、それらの取り締まりと抑圧・弾圧の政治的動きと体制強化もより一層強さと厳しさが増大していたのです。

 そうした時代だったからこそ、何とか現状を打破し、新しい社会建設の構想や動きも大きくなっていたのです。世界史的にみれば、1917年にロシア革命が起こり、国内的には、1918年に人々の生活苦を背景とする米騒動という民衆運動が起きています。さらに政治的には、1922年に日本共産党が結成されています。1923年には、関東大震災が起き、世情・政情がより不安定化していくのです。

 田中さんが国柱会を創設するのは1914年のことでした。また北一輝さんは、1919年に『日本改造法案大綱』を発表しています。宗教関係の類似の動きとしては、同じく1919年に大本教が『大本神論火の巻』を発刊しますが、すぐに発禁処分となっています。民間の動きとしても、1918年11月に、武者小路実篤さんらが「新しき村」を宮崎県に建設していました。(以上、吉田さんの年表によっています。)

 こうした時代状況を人々はどのように受け止めていたのでしょうか。盛岡中学校の先輩であった石川啄木さんは、「閉塞」と感じていたように思えます。すでに1910年に起稿された「暗い穴の中へ」という作品がその心情を示しています。石川さんは書いています、

 「何の変化の無い、縛られた、暗い穴の中に割膝をしてぎつしりと坐つてゐるやうな現実の生活に、……一人位は、何百人あるか何千人あるか知れぬ東京の運転手の中(うち)に、全く無目的に全速力を出して、前の車を二台も三台も轢潰(ひきつぶ)し、終(しま)ひに自分も車台と共に粉微塵になつて死ぬ男が、あつてもよいやうに思われた」(『啄木全集 第四巻』)のですと。

 宮沢さんはといえば、人々が生存競争と争いごとに巻き込まれ苦しむ状況を感じ取っていました。それは、1918年9月の保阪さんへの手紙の記述です。生活が厳しい世の中の中で、「暖かく腹が充ちてゐては私などはよいことを考へません しかも今は父のおかで暖く不足なくてゐますから実にづるいことばかり考へてゐます」という文章に続く文がそれになります。

 「私の世界に黒い河が速にながれ、沢山の死人と青い生きた人とがながれ下って行きまする。青人は長い手を出して烈しくもがきますがながれて行きます。青人は長い長い手をのばし前に流れる人の足をつかみました。また髪の毛をつかみその人を溺らして自分は前に進みました。あるものは怒りに身をむしり早やそのなかばを食ひました。溺れるものの怒りは黒い鉄の瓦斯となりその横を泳ぎ行くものをつヽみます。流れる人が私かどうかはまだよくわかりませんがとにかくそのとほりに感じます」と。

 また宮沢さんは高等農林学校時代に保阪さんをはじめとする友人たちと『アザリア』という同人誌を発行していました。そして、そこに「『旅人のはなし』から」(『新校本宮澤賢治全集』)という物語作品を発表しています。その物語で、「旅人はある時、『戦争と平和』と云う国へ遊びに参りました」。「その国の広い事、人民の富んでゐる事、この国には生存競争などヽ申すようなつまらない競争もなく労働者対資本家などヽいふ様な頭の病める問題もなく総てが悦び総てが真であり善である国でありました、決して喜びな〔が〕ら心の底で悲しむ様な変な人も居ませんでした」、という宮沢さんが追い求めていたであろう国の姿を描いていたのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン