シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人に寄り添い、見守ることで支えるという生き方(1)

 前回、空海弘法大師)さんと宮沢さんの生き様に共通するもの、それは、人の痛みや苦しみに、「寄り添い、見守る」ことで支え、心からそれらの痛みや苦しみから救ってあげたいという思いがあり、そのための行動をとるという生涯をおくったということではないかと述べました。

 しかし、自分一人だけの面倒を見て生きていくだけでもいっぱいいっぱいになってしまうような(とくに精神生活面で)余裕のない生活状態を余儀なくされてしまう現代社会では、そうした他者との関係性を築いていくことは非常に困難なことなのではないでしょうか。例えば、夫婦、親子、兄弟など同じ家族同士の間でもそのような関係性を創ることは難しいと言わざるをえないように感じます。

 今どきは、テレビニュースで、親子、夫婦、恋人間の殺人事件に関するニュース報道を目にしない日がないという状況となっています。老々介護の末、かつては愛し合っていたであろう相手を殺害してしまうというような報道に接すると、とてもいたたまれない気持ちになります。

 現代社会の中ではお互いの気持ちに寄り添い、共感しあって共に生きていくことがいかに難しいことになっているのか、それらの社会的悲劇の噴出が示してくれているように思います。

 むしろ、人間関係における気持ちの働く傾向性が、お互い相手をいかに自分の思い通りに動かすか、または動いてもらうかということになっているのではないでしょうか。「思いやり」という精神は現代社会の中では、「僥倖」の人間関係と言っても過言ではないのかも知れません。

 寄り添い、見守り、共感し合うことによって生まれる人間関係の反対が、支配・被支配の人間関係です。それは、身近な、例えば友人、恋人、そして家族という人間関係の中にも容易に生じる人間関係です。それだけ、現代社会においても、手っ取り早く相手を自分の思い通りに動かしたいという誘惑がいたるところに存在しているのです。精神科医信田さよ子さんは、身近な人間関係におけるそうした関係性を、「コントロールゲーム」と呼んで、さまざまな警告を発しています。

 それでも、不特定多数の、痛みや苦悩を抱えている人たちに寄り添い、見守ることで支えようとする人がいるのも人間世界のすごいところではないかと感じています。その例は枚挙にいとまないくらい存在しています。

 その中で、「夜回り先生」と呼ばれている水谷修さんという方の活動にずっと惹かれるものを感じてきました。なぜならば、水谷さんの「夜回り」の活動こそ、寄り添い、共感し、見守ることで痛みと苦しみを抱えている子どもたちを支える活動そのものではないかと思ってきたからです。

 その活動は、さまざまな理由でこの世界のどこにも自分の居場所を見つけることができず、寂しさを抱え、夜の繁華街にたむろせざるをえない子どもや若者たちに寄り添い、求められれば、いつ何時でも相談に応じるという活動なのです。そのため、水谷さんは夜に一度も寝たことがないというのです。

 その文献が何であったかわからなくなっているのですが、その水谷さんの活動を紹介した文章を読んだことがあります。そのには、水谷さんは教師ではなく、神そのものであると評されていました。自分もそう感じます。

 水谷さんは夜回りをしながら、痛みと苦しみを抱え自分の居場所を失っている子どもたちにどのようなことばをかけているのだろうかと思っていましたが、図書館で、『こどもたちへ 夜回り先生からのメッセージ』という本に出合うことができました。その本の中で、水谷さんは自分の活動について次のように記しています。

 「いつも夜の街を歩き回り、路上で見かけた子どもたちに声をかけています。それは、『子どもたちを救うために』などという大げさな理由ではなく、ただ黙って子どもたちのそばに立ち、彼らの話をゆっくり聞くためです。子どもと話すことが好きで、私にとっての〝夜回り〟は私と、夜の街に沈んでしまいそうな子どもをつなぐ細い糸です」とです。

 人を救いたいとの思いで生涯を駆け抜けてきた宮沢さんも、最後に行き着いた境地は、水谷さんと同じで、苦しんでいる人に寄り添い、見守ろうということではなかったかと、この水谷さんの文章を読んでいて感じるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン