シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

『春と修羅』を読んでみる(5)

 宮沢さんは死についてどのように考えていたのでしょうか。『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』の著者であるロバート・ライトさんは、「人間の苦しみに対する仏教の診断が根本的に正しいこと、その処方箋(しょほうせん)はきわめて有効で、まさに今こそ重要であることを論じ」るためにその著書を出版したと言っています。

 大多数の人にとって人間の苦しみで最大の苦しみとは死ではないでしょうか。そして仏教はある意味で死に関する「精神科学」ではないかと思えるのです。先に参照した定方さんは仏教と死と科学の関りを次のように紹介しています。

 「こんにち、科学は日進月歩のいきおいで進歩している。科学に対する民衆の畏敬の念は相当なものにちがいない。それにもかかわらず、科学に反する宗教に民衆がいまなお固執するのはなぜか、最大の理由は科学が死を克服していないこと」なのです。

 「死は民衆の目に最大の力と映る。王すら死に服する。王も民衆も死のまえでは平等である。どんな権力も民衆を死から奪うことはできない。死はいわば神であり、科学は死を撲滅(ぼくめつ)しないかぎり、どんなに進歩しても、民衆の絶対の心服をえることはできない」でしょう。

 「宗教も不死(生物的な)を可能にすることはできない。しかし、宗教は死の意味を明し(ママ)、不死(宗教的な)を説き、安心を与えることができる」[(ママ)は引用者によります。]のです。しかし、「これまで死について語ることはうさんくさいことと考えられがちであった。多くの宗教があまりにも幼稚な死後観を語ってきたから」です。

 「ところが、仏教は大いに死を語り、死について教え」てきました。「死を知るためには、まず自分を知らなければならない。自分とはなにか、仏教はこれを知ることを最大の課題とし」てきたのです。

 「その結果えられた結論が無我である。無我の理解は空を知ることによって深まる。そして、無我から不死が帰結する」のです。さらに言えば、「仏教は合理主義であるが、最近、合理主義を揶揄(やゆ)する風潮がみられるので、一言したい。このような風潮の背景には科学万能に対する幻滅がある。……非合理は合理の徹底であり、非合理の深さを知るひとは最後まで自分を合理主義者として任じる」でしょう。

 以上のような仏教、死、そして科学の関係を体系的に論じているのが定方さんの『空と無我』ですが、そうしたテーマに関心のある方はぜひ直接お読みいただければと思います。新型コロナ禍の現在多くの人たちが死の恐怖と苦しみ、そして自分の愛する人の突然の、そして愛する人の死との闘いに全く関わることができないなかでの死に向きあわざるをえないことを考えると、大いに参考になるのではないでしょうか。

 宮沢さんも、『春と修羅』の中で、確かに、無我としての自己論から出発し、自己と自己がふれる宇宙世界との心象スケッチによる風物を著わそうとしています。そのことは「序」に記されています。

 「わたくしといふ現象は

  仮定された有機交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

  風景やみんなといっしょに

  せはしくせはしく明滅しながら

  いかにもたしかにともりつづける

  因果交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

  これらは二十二箇月の

  過去とかんずる方角から

  紙と鉱質インクをつらね

  (すべてわたくしと明滅し

   みんなが同時に感ずるもの)

  ここまでたもちつづけられた

  かげとひかりのひとくさりづつ

  そのとほりの心象スケッチです」

 しかし、この序を書いているときは、宮沢さんは死について、とくに自己の死だけでなく自己の愛する大切な人の死にどのように向き合ったらよいかということについては全く考えてはいなかったのではないでしょうか。そうした状況の中で宮沢さんは突然、最愛の妹トシさんの死に直面しなければならなくなったのです。それまでは人は、そして自分はどのように生きるべきかについて考えることだけに情熱を傾けてきた宮沢さんは最愛の妹トシさんの死という事態に大いに戸惑い、大きな悲しみを経験することになったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン