シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(8)

 羅須地人協会と肥料相談所の活動を精力的に展開していた1927年という年は、農業生産をめぐる宮沢さんの明暗を分ける心情が交差し、激しく揺れ動いた年でもあったのではないかと思います。祈り(願い)・希望と悲しみ・怒り・絶望という両極端な心情が激しく浮き、沈みしているのです。そしてその心情の揺れ動きは、同年の詩の作品の中に色濃く反映・表現されています。

 とくに、1927年8月20日付の詩の作品群は、それぞれの作品が同じ日付の中で創作されたものとは信じられないほど、詩の作品に映し出され、表現されている心情が瞬時に入れ替わるものとなっているのです。宮沢さんの思想形成上におけるそのことのもつ意義については、まだ先行研究の多くを読むことができていないからかもしれませんが、少なくともこれまで参照してきた文献の中ではあまり注目されてこなかったように感じます。

 そこでここでは、1927年8月20日付のそれぞれの詩の作品を参照していきたいと思います。これら1927年8月20日の詩の諸作品は、冷害に対する宮沢さんの闘いの真価が問われた出来事に関する宮沢さんの心象風景です。すなわち、その日、宮沢さんが、冷害が襲ってくる中でも豊かな実りがえられるようにと願い、満を持して実施した肥料設計の試みがうちつづいた冷雨によって打ち砕かれてしまったのです。

 そのことは、「野の師父」という作品の中では、次のように描かれています。「豊かな稔りを願へるままに/二千の施肥の設計を終え/その稲いまやみな穂を抽いて/花をも開くこの日ごろ/四日つヾいた烈しい雨と/今朝からのこの雷雨のために/あちこち倒れて」てしまったのですと。

 その事態に対し、宮沢さんは奇蹟が起こることを祈り、希望を託そうとします。作品の中で、それは次のように表現されています。「もし明日或は明后日/日をさへ見ればみな起きあがり/恐らく所期の結果も得ます/そうでなければ村々は/今年もまた暗い冬を迎へるのです」と。

 では宮沢さんは、そうした奇蹟が起こるかもしれないということを願った根拠とは何だったのでしょうか。それは、この作品で宮沢さんが「野の師父」と呼ぶ、70年もの農業経験を積んだ<古老>の顔の表情が明るいからというものでした。

 「師父よあなたを訪ねて来れば/空と原とのけはひをきいてゐられます/日日に日の出と日の入に/小山のやうに草を刈り/冬も手織の麻を着て/七十年が過ぎ去れば/あなたのせなは松より円く/あなたの指はかじかまり/あなたの額は雨や日や/あらゆる辛苦の図式を刻み/あなたの瞳は洞よりうつろ/この野とそらのあらゆる相は/あなたのなかに〔複〕本をもち/それらの変化の方向やその作物への影響は/たとえば風のことばのやうに/あなたののどにつぶやかれます/しかもあなたのおももちの今日は何たる明るさでせう」。

 宮沢さんは、あらゆる辛苦を経験してきたことで三澤さんのように自然のことばを「訊く」ことができるようになったと宮沢さんが考える「野の師父」の明るい表情に励まされ、奇蹟を信じようとします。

 そして、その奇蹟を信じようとする心には、自分が信じる仏への祈りが沸き起こり、重なってくるのです。それは、自分が信じる宗教上の「師父」への祈りです。宮沢さんは祈ります。

 「尚わたくしは/諸仏菩薩の護念によって/あなたが朝ごと誦せられる/かの法華経の寿量の品を/命をもって守らうとするものであります/それでは師父よ/何たる天鼓轟きでせう/何たる光の浄化でせう/わたくしは黙して/あなたに別の礼をばします」と。

 ここで参照してきた「野の師父」という作品に表現されている宮沢さんの心情を察してみると、宮沢さんも神的な「透明な意思」をもつ自然と一体となり、合一することを志していたのだなと感じます。そして、その合一の武器が自然科学や心理学などの学問であると思っていたのではないかと思うのです。しかし、冷害・凶作との闘いの中で、自然との合一のためにより重要なものは、自然と関わる長年の実践によってはじめて可能となる「あらゆる辛苦の図式を刻」む経験であることをあらためて(他の作品の中で、宮沢さん自身そうした自然との闘いがこれからのほんとうの学問であると教え子に諭していました。)覚ったのではないかと推察します。

 そうした経験に比すると、自分が修めた学問による知識で冷害・凶作を克服できると思ってきた自分の行為は、「口耳の学をわずかに修め」ただけの「鳥のごとくに軽〔佻〕な」ものであったのかと、宮沢さんは感じたのでしょう。しかし、宮沢さんには、自分の健康や体力を考えると、70年にも及ぶその経験は、宮沢さんにとってとてつもなく長く、今の自分にはとてもできないことである感じざるをえなかったものとも推察します。

 でも、宮沢さんは、そうした自分にできる精一杯の闘いをしていこうと誓をうとしたのではないかとも感じるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン