シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(9)

 私たちが生きている宇宙世界におけるすべての存在は、相互に関係し合い、影響し合うことによって不断に変化しつづけています。それは、その根源には、その宇宙世界は、ビックバーンによる誕以来、いまだに急速なスピードで膨張しつづけているという事実があるからです。宇宙世界にあるすべてのものは、その影響を受けないわけにはいかないのです。

 ではそうした宇宙世界の存在様式の中における私たち人間世界のあり様を、宇宙世界の変化との関係でどのように把握していったらよいのでしょうか。ここまで宮沢さんと三澤さんの自然およびその自然とかかわって生活している農家の人への向き合い方を対比しながら参照してくる中で、ふと、そのような問いが頭に浮かんできました。

 さらにその問いの延長として、宇宙世界における不断の変化にははたして目的・意識性というものがあるのか、また人間は、宇宙世界におけるすべての存在の関係性とその関係性から生まれてくる変化および変化の先行きをはたしてどこまで把握し、その変化に対応することができるものなのか、というさらなる問いが頭に浮かんできました。またそれらの変化は、私たち人間の日常の生活の中では、日々の暮らしの中で起こってくる数々の出来事として認知されるものでもあります。

 宮沢さんは、宇宙世界には「透明な意志」が存在していると考えていたのではないかと思います。しかも、その意志は、宇宙世界のすべての存在の幸せを実現することができるようにと宇宙世界のすべての存在を有機的に統合しようとしているともとらえていたのではないかと推測します。

 三澤さんはと言いますと、三澤さんは自然およびその変化には目的・意識性はないものと考えていたのではないかと思えます。なぜならば、三澤さんは、自然に悪いものは何もないと考えていたからです。三澤さんは善悪の判断(とその判断の基礎にある目的・意識性)の世界は人間の世界だけのあるものであると主張していました。

 さらに話の流れを脱線させることになるかと思いますが、そうした問いを考えていたとき、現在話題になっている藤井聡太さんが将棋戦の八冠を達成したという快挙のことが頭に浮かんできたのです。

 将棋は、ここでの議論との関係で見るならば、将棋盤の上で繰り広げられる変化を、知力を尽くして迅速かつ正確に読み切ることを競い合う一種のゲームではないかと思います。そして、そのゲームの中で展開する変化は、明確な意図と競い合うためのルールが存在しているという制限がある中で起こる変化です。まず、ゲームが繰り広げられる世界は、81マスに区分けされている将棋盤というかなり狭い空間世界になります。その狭い空間の中で、競技者は、将棋盤をはさんで向かい合い、玉、飛車角、金銀、桂香、そして歩という8種の将棋ゴマをお互いに一手づつ指す、すなわち81マスのいずれかのマスに移動させていきます。その結果、相手の玉を詰ますことができた者が勝者になります。もちろん、競技者は自分が勝者になることを目的としてそのゲームを競い合うのです。

 ただ二人の人間が、明確な意図をもち、ただ81マスという狭い空間上で、さらに同じルールに従って競技を進めていくという世界の中でさえ、人間の思考力という点から見ると、その盤面で展開される変化は無限に近いものがあり、その変化をだれよりも読み取る力がある藤井さんは、将棋競技の世界における神的存在と捉えられるのではないでしょうか。

 そうした将棋の競技の世界における盤上の変化は、地球上の人間の生活世界から見れば、ほんの一部にしか過ぎない極小の世界の変化です。同じように地球上の人間の生活世界における変化は、無限に広がる宇宙世界もそれと比較すると、やはり極小の世界の変化にしか過ぎないものでしょう。

 しかも、宇宙世界全体の変化(出来事)は明確な目的をもって人間が生み出している世界でもなければ、変化(出来事)でもありません。宇宙全体の変化過程の中でその極小の一部として、人間の生活世界とその変化(出来事)は誕生してきたものです。人間の生活世界やその変化(出来事)さえ、人間の思い通りに制御することができないのです。ましてや、それをはるかに超越した宇宙世界およびその変化(出来事)を人間が制御することが不可能なことは、当然であると言ってよいのではないかと思います。

 だからこそ、宇宙世界全体のすべての変化(出来事)を自由自在に生みだすことができるほどの偉大な力をもった存在者というものがいると信じることができるならば、その偉大な力にすがって、人はまたどのようなことが起ころうと自分の願いが叶うという夢をもちつづけることができるようになるのではなかと思います。

 問題は、どうしたらその偉大な存在者が自分の願いを叶えてくれるようになるかということでしょう。例えば、まず信じること、そこに生きる意味と日々になすべきこと、行ってはいけないことを見出し実践することなどが、偉大な存在者に自分の願いに気づいてもらう、または自分がその偉大な存在者と同じような力をもつことができるようになるための方法と考えられるようになっていくのではないかと思います。

 宮沢さんもまた、そうした偉大な存在者が実在していることを信じ、その偉大な存在者の力にすがって自分の、冷害・凶作に苦しむ農家の人たちを何としても救いたいという思いが叶うという奇蹟が起こることを願い、祈ったのではないかと考えます。「和風は河谷いっぱいに吹く」という作品もそうした宮沢さんの祈り(願い)を表現した作品ではないかと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン