シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(7)

 三澤さんは、これまで確認してきたように、自然および個々の農家の農業生産の様子を観察し、それらの告げ知らせることに耳を傾け、「訊く」ことで、実に多くのことを学んでいました。宮沢さんも、自身の肥料相談所の活動のために、一人ひとりの農家の人から、時間をかけて聞き取りをおこなっていました。しかも、そうした活動を宮沢さんは、自らの死の直前まで、しかも病をおしてつづけていたのです。

 しかし、宮沢さんの場合は、その聞き取りの作業は、自分の肥料設計のための農家の人の田の土壌条件に関する情報を得るためのものでした。すなわち、聞き取りをおこなっている相手の農家の人から何かを学ぶというものではなかったのではないかと思います。和田さんは、宮沢さんの、そうした農家の人たちの創意工夫の話に耳を傾け、その話から何かを学ぶという姿勢に欠けていると推測されるところに、宮沢さんの傲慢さが示されていると見ていたのです。

 和田さんによれば、宮沢さんの詩の「饗宴」という作品の以下の一文に、農家の人の言い分に耳を貸そうとしない宮沢さんの姿勢が示されているのです。その一文とは、「(紫雲英(ハナコ)植れば米とれるてが/藁ばかりとったて間に合ぁなじゃ)」という、同じ宴会に同席している農家の人の話に対する宮沢さんの心の中での叫びを表現している文です。

 その叫びは、農家の人の話の中ででた「紫雲英」という言葉を、宮沢さんは自分がやろうとしていることに対する批判であると受け取ったことによるものだと推測できるのですが、和田さんによれば、宮沢さんは、農家の人の話をそのように受け取ってはならなかったのではないかと指摘しています。お金をかけずにえられるものを稲作に活用することはむしろよい工夫と認められるものではなかったかと言います。

 その和田さんの指摘が稲作の生産方法として当を射た指摘であるかどうかについては判断できないのですが、確かに、「一木一石まで意識し生かす」ことを奨励していた三澤さんであれば宮沢さんとは違った受け取り方をしたのではないかと思えます。

 三澤さんは、フィールドワークの中で農家の人と同じ場所に立ち、相手の人と対話することを重視していました。それは、自分の学びのための情報をえるためだけではなく、その対話の中で、相手が自然にその場の風土、風土に合った生産物と生産方法に気づくようになるように接し、話すことを心掛けていたのです。

 三澤さんはそのフィールドワークのあり方を、「野外に立ち、体験をときほぐして風土性を発見する」と表現しています。三澤さんいわく、「要は、ともに野外に立ちながら、そこの野外での今までのいろいろの体験を基に、まず風土というものの存在を理解してもらう」。「さらに今一歩進んで、そういったそこの風土性を基調にそこの産業を計画」すること、「そこの風土に順応した、すなおな計画をたてるまでにその理解を深め」てもらうことを心掛けているのですと。

 そうした三澤さんの風土産業奨励の提案と三澤さんのフィールドワークの姿勢は、当時の自然災害と経済恐慌、そして政府の「自力更生運動」という国が自己の役割を投げ捨ててしまい、農民の人たち自身が自己責任で自らの窮状を抜けださなければならなかった政治状況の中で、多くの地域と農民の人たちから歓迎的に受け止められていったのです。

 三澤さんの講演会は大きな特徴がありました。それは、講演とセットでその地域の後継者となる地域の若い人たちの風土観察研修が実施されていたということです。三澤さんは、彼らとともに、その地域の野に立ち、これからのその地域の風土産業の将来設計をも共におこなっていたのです。

 宮沢さんの場合は、本当の「百姓」になろうとしたばかりの時期で、まだほとんど農業労働の経験を持っていませんでした。さらに、農業の経営的側面については全く考慮の外にあったと和田さんは論じていました。農業実践の実際のことに関しては、宮沢さん自身、まだまだ多くのことを学ばなければならない立場だったのです。だた宮沢さんのすばらしいところは、宮沢さんが直面した試練を糧に、後にそうした自分の立場をすぐさま悟り、農民の人たちの経験から学ぼうとする姿勢をもとうとしたことではないかと考えます。

                                                               

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン