シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(6)

 三澤さんが、自然および農家の人の農業生産の様子を観察し、それらの告げ知らせることに耳を傾け、「訊く」ことで、実に多くのことを学んでいることは、三澤さんの講演の記録や書き物を読んでいるとよくわかります。それは、それらの記録や書き物に実に多く「なるほど」ということばが現れるからです。

 いくつかその例を参照してみましょう。それらは、雪に関係する風土の探究の例です。まず「信濃川の沿岸の一部、小須戸(こすど)町から小合(こあい)村〔現・新潟県新津市〕あたり」のチューリップ栽培に関しての例です。

 「なるほど訊いてみるとおもしろいことには、以前のこの地方もよそと同じように、否、よそ以上に小作争議の有名な地方であった。それがこの草花を栽培するようになってからは、まったくなくなり、のみならず、このごろ新設された負債償却法施行に対してはこの村がトップであった」。「しかもその畑の中であるいは施肥にあるいは除草に終日働いているこの地方の農家の人たちに対し、収益の高価というよりも、より以上に私はうらやましくさえあった」のです。

 「なるほどこの春は雪は相当に降るには降った。しかしここは越後とちがって、そう冬通して雪の積もっているはずもない。してみれば、なにも冬中通しての積雪ということが必ずしも必要条件ではないではないか。とにかく一つ宿の人にたずねてみることに」しよう。

 次は、「あけびのつる細工」における原料となるつると雪の関係についての例です。それは、信州のつる細工の原料が山形産なのはなぜかということを探求したフィールドワークに関するものです。そのきっかけは、信州のつる細工の工人の方に、「私の郷里〔更科村、現・長野市更科町〕」のつるを「使ってもらうわけにはいくまいかと相談してみた」ことです。結論は信州産のつるは強度がないので使用に耐えないということだったのです。なぜ信州産のつるは強度がないのか、三澤さんの探究がはじまります。

 「なるほど山形」では、「まだ雪のある当時から、そこの地温のために積雪の下ですでに伸び始めており、やがて、そこの雪の消えるや、今や遅しと急に伸びるので、ああいった本も末もない軟らかいものができる」のですか。しかし、信州では、「雪の深い地方のものとはちがって、春、雪解け後、芽が出てから伸びきるまでに相当長い期日を要するものとみえ、したがってそのつるの本と末とではその剛(つよ)さがちがっている」ことで折れやすくなっているのですかと。

 以上の実に簡単な確認だけからでも、三澤さんのフィールドワークは、自分にとって不思議と感じることに対して、なぜそうした不思議なことが生じるのかを解明しようとするフィールドワークであったことが分かるのではないでしょうか。しかも、三澤さんのそれは、生産物の本性との関係における生産法の改善のため、風土を活かした、または風土に適った方策を探求するという実践的精神の強いフィールドワークであったと言えるのではないでしょうか。

 そのため、三澤さんのフィールドワークは、生産物に関する一般的な生産技術に関する知識ではなく、地方地方の、地域地域の、そして農家一軒づつのより個別的・具体的な事例に下降してのフィールドワークであったと言えます。その調査法こそが、自然およびその自然への個別農家の働きかけ方の観察と「訊き」取りだったのです。

 ではそうしたフィールドワークをつづけていた三澤さんの目には、当時の東北地方における冷害と凶作、そしてそれによって引き起こされる人々の飢饉に象徴されるような生活の窮乏化はどのように映っていたのでしょうか。三澤さんは、ある講演のなかで次のように述べていました。

 「先年ときどき襲われたかのように宣伝されております、東北の飢饉のごとき、元来高温多湿を要求している稲を、いたずらに、いや、むりに、低温なあの地方へ栽培しようとしたからの当然の結果でありまして、今日、わが日本の国としましては、おそらく、どんな地方でも、またどんな冷温な年柄でも、草の生えない地方はないと存じますが、その草を中心に山羊なり、羊なりを飼育いたしましたらば、立派に衣も食も足りるはずではないでしょうか。要するに私にいわせますれば、東北の飢饉は、あれは一種の『人工飢饉』であるとさえ申し上げたいほどであります」と。

 この三澤さんの文章を読みながら、冷害によって凶作になろうと、飢饉で苦しもうとたとえ稲作に向かない気候風土の中でくらしながらも、日本においては、稲作に対する欲求は非常に高いものがあったのだなと、あらためて思いしらされました。そういえば、東北より北に位置する北海道さえも、近代以降の開拓の時代、農業生産のための水田開発が実施されていったのではないかと思います。現在でも北海道は日本における有数の稲作地帯となっているのです。

 そうした人の意欲を生かす道はなかったのでしょうか。三澤さんはこの点での方向性も示していました。それは、「新品種の育成」という方向性です。三澤さんは言います。

 この方策は、「まだまだ消極的領域の多い態度であったが、このほうはきわめて積極的である」。すなわち、その方策は、「けっしてそこの風土を無視するという意味ではない。否、それどころか風土そのものをもっとも充実した姿まで進展させようとする努力でさえあるものである」のですと。

 この「新品種の育成」は科学の力が発揮できる方策であったはずです。同時にその方策が大きな成果をあげるには時間が必要となります。事実、その後の東北の農業はその風土に合う「新品種の育成」の血の滲むような努力の積み重ねの中で発展していったと思うのです。しかし、この方策は、宮沢さんの冷害との闘いの中では採用されるものではありませんでした。なぜならば、宮沢さんは、「この秋」の目の前の悲劇的状況を自分の力で何とかしたいという思いがあまりにも強かったからではないかと感じるのです。それは、まるで仏や菩薩の人の苦しみを救う奇蹟的な力を自分も発揮したいという宮沢さんの願いのようにも感じるのです。しかし、現実には、そうした奇蹟的な近道は存在していなかったということなのでしょう。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン