シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

自然とともに生きる

 岡本さんは、東北人の不屈の精神を育んできたもののひとつが、「東北の自然の美しさ」であると指摘しました。そして、次のような文章をつづけます。

 東北の自然の美しさに「魅了されたのは東北人だけでない。辺境でありながら、都人は東北の地にあこがれを抱いてきた。旅人たちも、そして、長い旅の結果、東北に移住してきた人たちも、この東北の自然に抱かれることをのぞんだ。時に、厳しすぎる姿を見せるこの美しい自然に。」というのがその文章です。

 宮沢さんも、東北の自然の美しさに抱かれることを望んだひとりです。宮沢さんにとって極楽浄土とは、自然の美しさに抱かれるということだったのかもしれません。そして、その美しさは、宇宙史的自然の精神史の中で発酵し、育まれてくるものなのでしょう。

 さらに、自然の美しさには、人の自然とのかかわり、人と人とのかかわりにおける振る舞いの美しさも含まれているのでしょう。宮沢さんにとって、自然とのかかわり、そして人と人とのかかわりにおける振る舞いの美しさとはどのようなものであるか、それが重要なテーマであったように感じます。

 そこで問題となるのは、自然が有している精神性とは何かということではないかと考えます。近代科学的に考えれば自然に精神性が宿っていると考えるのはとんでもない間違いということになるでしょう。しかし、もしかしたらそうした考え方がとんでもない間違いなのかもしれません。

 では、精神性とは何なのでしょうか。社会学的に考えてみると、それは、関係性にあるものの間に存在している作用・反作用の関係性のことではないかと考えます。そしてこの世に存在する万物は、すべてが関係性をもち、しかも、その間での絶えまのない作用・反作用の関係性の中でこれも絶え間のない変化を遂げつつ存在しているのです。

 これまで、人は、人間の理性や目的意識性という精神性だけを何か特別なもの、しかも至高のものであると理解してきたのではないでしょうか。しかし、現代社会においては、そうした理解でよいかが問われているのではないかと思います。すなわち、それは、人間存在だけが、万物の中で特別な存在であるとする捉え方に通じているのです。しかし、人間も人間だけでは存在しえません。

 自然の美しさは、人が感じる美しさです。そして、それは、人が生活を通じて自然とかかわり、自然に働きかけることを通して自然が見せてくれる美しさです。さらに、社会学的に言えば、自然の美しさとは、人と人との関係性を媒介とする生活を通して人が自然にかかわり、働きかけをすることを通して自然が見せてくれる美しさです。

 そのために自然は人に対して常に美しさだけを見せてくれる訳ではないのです。ときには、岡本さんが言う厳しすぎる姿を見せるのです。しかも、不断に変化していくものでもあります。それにもかかわらず、自然が常に人に対してその美しさを見せてくれているとするならば、それは人の自然に対するかかわりや働きかけが自然の美しさを維持するような形をもちつづけていることの証だと言えるのです。すなわち、自然の美しさは、容易に損なわれるものでもあります。

 宮沢さんは、それらのことを、「小岩井農場」という詩の作品の中で、次のように表現しています。

 「はたけの馬は二ひき/ひとはふたりで赤い/雲に〔濾(こ)〕された日光のために/いよいよあかく灼(や)けてゐる/冬にきたときはまるでべつだ/みんなすつかり変つてゐる/変つたとはいへそれは雪が往き/雲が展(ひら)けてつちが呼吸し/幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ/あおじろい春になつただけだ/それよりもこんなにせわしい心象の明滅をつらね/すみやかなすみやかな万邦流転(ばんぽうるてん)のなかに/小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が/いかにも確かに継起(けいき)するといふことが/どんなに新鮮な奇蹟だらう」

 以上がその文章です。そして、この文章にある「新鮮な奇蹟」をもたらしているものこそ、小岩井農場の人たちの日々の暮らしとその中での生活活動だと言えるのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン