シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(1)

 終活の一環として宮沢さんの作品や人生に興味をもったことで、それまで手に取ったことにない多くの文献や、それまで全く関心をもたなかった宗教関係の文献にも接することができ、多くのことを学ぶ機会をえていることに喜びを感じます。とくし、なるほどそうした見方、考え方というものがあるのか、という発見は、とても楽しいものだと感じます。

 宮沢さんは、自分の詩や童話の創作を通して、それまでのあり方を批判し、新たな仏教の形の創造をもめざしていたのではないか、という着想も自分にとってはその一つの発見です。では宮沢さんは、既成の仏教の何を、どのように批判し、何に依拠して自分の考える新しい教えを創造していこうとしたのでしょうか。

 まず何に依拠したのかという点に関しては、トルストイさんが既成のキリスト教のあり方を批判し、新たな教えを創造しようとしたときに採用した方法に影響を受けたのではないかと考えます。トルストイさんの場合は、それは、原始キリスト教の教えへの復帰でした。宮沢さんの場合も、仏教の創始者であるブッダさんの教えに戻るということではなかったかと推測します。

 ただ宮沢さんの場合、既成の仏教を批判する言辞や言説はあまり見られません。しかも、そうした推測ができるような文言でも、直接的な物言いではない表現法をとっているのです。例えば、「職業芸術家(仏教者)はいちどほろびなければならない」〔( )内は引用者によります。〕というようにです。実は、そうした方法をとったのも、ブッダさんの教えに従おうとしたからではないかと考えます。その点に関して、ブッダさんは「発句経」の中で次のように言っていたといいます。すなわち、

 「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ」〔「発句経」の50番、中村元訳『ブッダの真理のことば/感興のことば』岩波文庫、2023年(69刷)〕とです。

 宮沢さんは、このブッダさんの教えに従い、「ただ自分のした」作品や行為の中で、自分が考える成仏および極楽浄土への道を示そうとしたのではないかと考えます。それがどのようなものであったか、社会学の視点でフォローしていきたいと思います。そのための議論の出発点となるのが「自我」概念ではないかと考えます。それは、仏教にとっても中心的な概念であるだけでなく、心理学を熱心に学んだという宮沢さんにとっても中心的な概念となるものではなかったと考えます。

 例えば、宮沢さんは、農民芸術論の中で、農民芸術の創造による個々人の成仏の道を、個々人の心理学的成長段階との関係で次のように論じていました。すなわち宮沢さんは、「農民芸術の(諸)主義」について、「それらのなかにどんな主張が可能であるか」を次のように論じていたのです。

 「芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する/人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する/芸術としての人生は老年期中に完成する/その遷移にはその深さと個性が関係する/リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する/形式主義は正態により標題主義は続感度による/四次感覚は静芸術に流動を容る/神秘主義は絶えず新たに起るであらう/表現法のいかなる主義も個性の限り可能である」とです。

 ここには真剣・まっとうに生きた人の人生はそれ自身が一つの芸術であるとするトルストイさんの思想を受け継いだ宮沢さんの人生観が示唆されているものと考えます。そして、その生き方を表現する「主義」(宗教をも含めたその人その人の人生観)は、それぞれの個性の違いに応じて、百人いれば百通りの真理が存在しているということを、宮沢さんは主張しているのではないかと推測します。すなわち、出家することだけが、成仏の道ではないと宮沢さんは、主張したかったのではないかと推測します。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン