シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざしたこの世の極楽浄土像とは(4)

 宮沢さんの農民芸術論に関して、社会学的に見てさらに興味惹かれる議論は、「農民芸術の産者」および「農民芸術の批評」論です。なぜならば、それらの議論を社会づくりという視点で見るとき、宮沢さんが何をめざしていたかを明らかにしてくれているからです。まず前者の論点を参照してみましょう。それは、「われわれのなかで芸術家(極楽浄土をめざす人)とはどういふことを意味するか」〔( )内は引用者によるものです。〕についての議論です。宮沢さんは、首唱します、

 「職業芸術家(宗教家)は一度亡びねばならぬ/誰人もみな芸術家たる感受をなせ/個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ/然もめいめいそのときどきの芸術家である/創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される/そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう/創作止めばふたたび土に起つ/ここには多くの解放された天才がある/個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面(この世)も天(極楽浄土)となる」〔( )内は引用者によります。〕とです。

 ここで表現されている土とはこの世を示唆しているのでしょう。そして、天は極楽浄土を示唆しているものと考えられます。人々すべては個性的存在です。それを芸術家となって十分に表現するとき、すべての人は天才、すなわち仏となるのです。しかも、それらの人々が争うことなく併びたつとき、その世界(社会)は極楽浄土となることができるのです。

 ではそうした意味をもつ、「農民芸術の批評」を宮沢さんはどのように論じていたのでしょうか。宮沢さんは首唱します。

 「正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか」。それは、「批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ/誤まれる批評は自らの内芸術(自分が属している宗教または宗派)で他の外芸術(他の宗教または宗派)を律するに因る/産者(仏となり極楽浄土をめざす者)は不断に内的批評を有たねばならぬ/批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある/破壊的批評は産者を奮い起たしめる/創造的批評は産者を暗示し指導する/創造的批評家(宗教家)には産者に均しい資格が要る/観照的批評は完成された芸術に対して行はれる/批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ/斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る」〔( )内は引用者によります。〕のですと。

 この宮沢さんによる農民芸術批評論をどのように解読していけばよいのでしょうか。終活の一環として最初宮沢さんに関心をもったときにこの文章を読んだときには、一般的な芸術批評論なのではないかという意識で読んでいました。しかし、宮沢さんの人生や生き方に関心をもったことで、それまでほとんど関心もなく、そのために手にとることもなかった宗教関係の文献の読み進めることで、結論から言えば、この農民芸術批評論は、既成の宗教および宗教家批判論として読まなければならないのではないか、という思いが強くなってきたのです。

 とくに、末法期に入った後の宗教とはどうあらなければならないのか、宮沢さんはそうした問題意識を強くもっていたのではないかと推測できるのです。そう言えば、宮沢さんが影響を受けたと考えられる、トルストイさんは、既成のキリスト教の先鋭的な批判者でした。また、宮沢さん自身、自分の命を捧げる覚悟で入会した国柱会での活動の中で、教えはあるが実践がないという思いでその活動から退いたという経験をしていたのではないでしょうか。

 「法句教」に関するある文献を読んだとき、ブッダさんの教えは如何にやさしく、むずかしいことばもなく、しかもあたりまえのことが言われているので、すぐに理解できるものですという言説に出会いました。また、しかし、難しいのは、いかにその教えを実践するかにあるのですという言説に出会いました。そして、次の文章がつづいていたのです。それは、

 「自分の誓いと、他者への願いとを、他からの命令でなく自分から進んで喜んで実践していくのが仏教思想の特徴です」という文章です。さらに、その文献では、その実践は、仏教でいう愚かな考えではなく、正しく、賢くあらねばならないのですと諭していました。

 そして、ここからは極めて主観的な感想となるのですが、しかし、末法思想によれば、すなわち宮沢さんによれば、既成の仏教を含む宗教にこそ、その実践がなくなってしまっていたのではないでしょうか。仏教を含む既成の宗教に残っていたのは、正しい教えとは何か、どの宗教・宗派が正統的な教えなのかをめぐる、(人間にとって最も)「愚かで醜い」(「どうする家康」というNHK大河ドラマの最終回における家康さんのことば)争いという形にまでいきつきかねない(そして、現在そうした事態が世界中で起こっているものと思われるのですが)争いごとではないかと、宮沢さんは感じていたように感じます。

 宮沢さんの童話作品とは、そうした既成宗教における正義・真理・正統性をめぐる争いが、それらの生存・富・名誉(声)をめぐる競争・争いとなってしまっている姿をも描き出すことにもなっていたのではないかと感じます。蛇足となりますが、ロシアによるウクライナ侵攻へのロシア正教の加担やパレスチナにおけるイスラエルの蛮行を宗教家はどのように捉えているのでしょうか、ぜひ聞いてみたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン