シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(2)

 いわゆる煩悩と言われていることを、一般的に見たとき、まず念頭に浮かぶのは、生物学的自己保存本能に関連することがらのように思います。例えば、生きるための食欲や子孫再生のための性欲を含む(いわゆる縄張りを意味する)占有欲や怒りの感情にもとづく闘争欲などなどがそれらに相当するものとなります。社会学的に言う自我とは、それらの生物学的自己保存本能とは全く別ものなのです。社会学的見れば、自我とは、何よりも社会的なものなのであり、生物学的な自己保存本能を社会生活に支障をきたさないように制御するための社会的・心的装置なのです。そのため、自我を亡(失・無)くすことは、生物学的な自己保存本能の奴隷となり、社会生活を乱す要因となることを意味します。しかも、その社会的・心的装置としての機能は、実際にはこれも構成メンバー間の感情交流を基礎とする社会生活の中で形成、発達してきた脳における神経細胞のネットワーク間の相互作用によって生じる働きだと社会学は考えます。すなわち、社会学も、自我とは、個々の人間の心の中に宿っている永遠不滅の実体として存在しているものではないと理解しているのです。

 そのように社会学的に見ると、自我とはまず社会的なものなのです。すなわち、自我は生まれながらに誰にも存在しているのではないのです。人は、ある社会の中で誕生し、日常の社会生活において他者と感情交流するなかで自己の自我を構築していきます。社会生活において重要となるのが、同じ社会のメンバーがいまどのような感情状態にあるかを理解し、それらの感情状態に自分はどのように応答し、ふるまえばよいかを選択し、柔軟に自分の感情表現と行動を変えていくことのできる力です。その方向性として求められるのは、社会的動物としての人間存在にとっては、なるべく軋轢と対立を避け、協働するにはどうしたらよいかということなのです。

 そして、この側面における自我の重要な機能が、他のメンバーの感情状態を理解する社会的・心的装置としての機能です。そうした機能を有する自我は、他者、とくに自分にとって重要となる他者の喜怒哀楽の諸感情への共感を通した感情交流によって誕生していきます。すなわち、自分が向き合っている相手がなぜ、どのような原因によって、ある感情状態となっているのか、自分自身が想像上で相手の立場に立ち、そうした場合自分だったらどのような感情になるかを想像する努力をする(感情交流の社会理論の生みの親であるアダム・スミスさんはそうした努力を感受性の努力と呼んでいました。)ことで、相手と同じ感情を経験しようとするのです。そしてその経験が、当の相手の実際の感情と一致する限りで共感が生まれるのです。そのためには、自分の感情を共感してもらう側では、自分の感情に共感しようとしてくれている他者が、自分の感情についてこれるよう、自分の感情を抑制する努力をしようとするのです。共感はそうしたお互いの感情状態に関心をもつもの同士の自他の感情交流の賜物なのです。

 そうした日常生活における感情交流の経験の積み重ねの中で、自分の欲望を制御する社会的・心的装置や他者の感情を理解するための社会的・心的装置というような上述してきた個人の内面世界を律する装置が形成されていくのです。それらの装置を総称して、社会学は自我と把握します。その自我形成のメカニズムは、共感的な感情交流における他者の観点の内化です。すなわち、人は、他者の観点を自分の内面世界に取り込むことによって、他者の感情を理解し、自己の感情をコントロールする社会的・心的装置を形成していくのです。そのため、自我は、自分の我と名づけられているのですが、純粋な個人的な性格の我ではなく、実に社会的性格の我なのです。

 仏教においては、とかく自我や我は、生きていく中で直面しなければならない苦しみの根源として、否定的、ときには悪者と見られているようです。しかし、社会学的に見れば、自我や我こそが社会的動物としての人間に特有の、すなわち人間を人間たらしめているものなのです。そのために、自我を無くすことはもはや人間ではなくなることを意味することになります。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン