シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

高村光太郎さんと岩手県(3)

 高村さんが言う「錬金術を究盡」するというのはどのような意味なのでしょうか。『高村光太郎論』の著者である中村さんによれば、高村さんは自分の修行時代から結婚後の生活まで、経済的には父である光雲さんに依存していたといいます。いわゆる父親にパラサイトしていたのです。

 では高村さんはどのような生活を夢見ていたのでしょうか。高村さんは、北海道で開墾に従事し、半日酪農をして生活の糧を得て、半日自己の芸術に励むことを夢見ていたのです。中村さんは、欧米留学から帰国したときの高村さんの山脇信徳さんへの手紙の中にそうした考えが披歴されていると言います。その手紙には、要約すると、次のようなことが書かれていました。

 「北海道で地面の中から自分の命の糧を貰います。そして、今の日本の藝術界と没交渉的な僕自身の藝術を作ります。地球の生んだ芸術を得ようとします。そして、此が一面今の社會に對する皮肉な復讎です。僕は日本の東京の爲めどの位神經に害を與へられたか知れません」とです。

 さらに、南薫造さんへの手紙で蝦夷地に自分の藝術王国を建設する夢を描いていたといいます。すなわち、「小生は蝦夷にて一生を送りたき考えに候。……そして命の糧を藝術品に仰がず、地面の中から貰ふ考えに候。……とにかく、蝦夷に小生の藝術王國を建設するがおもしろき事に思ひ居り候」というようにです。

 そして、高村さんは、「半日バター製造ないし酪農業に従事して生活の糧を得て、残りの半日を芸術の制作にあてるという構想」をもったのです。中村さんは、そうした高村さんの夢は、「彼の無智ないし夢想とがあるであろう」という手厳しい批評を行っています。確かに、高村さんの夢は、夢でしかなかったのでしょう。

 しかし、終戦後もう一度今度は岩手県の太田村山口でその夢に挑戦するチャンスが訪れたのです。高村さんの「終戦」という詩における晴れやかさや喜びの気持ちの源はそのことにあったのです。

 ではそのような理想的生き方を抱いていた高村さんの目には、岩手の地とそこで暮らしている人々の姿はどのように映ったのでしょうか。太田村山口での生活の中で綴った詩によって確かめて行きたいと思います。

 その前に、高村さんが何をもって太田村山口での生活を「自己流謫」と称したのかについて確認をしておきたいと思います。中村さんによれば、「自己流謫」というからには自分で何らかの罪を犯したという自覚がなければないはずなのです。しかし、同じく中村さんによれば、高村さんが「いかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」と指摘しています。そうだとすれば、太田村山口での生活はどのような意味で「自己流謫」だったのでしょうか。

 本当に中村さんが言うように、高村さんには何らかの罪を犯したというただの一片の罪の意識もなかったのでしょうか。高村さんの「試金石」という作品にその回答を探ってみたいと思います。

 「無限大のような宇宙の中で/一年一周をわれらは生きる。年周回歸のこの遊星の上の人類は/まだ野蠻の域を脱しきれず/人権保障も遠い夢だが、/はじめて武器をすてて立つ一つの國が/最初の新年を迎へる年に/運命は何を持ってくるか、/むしろきはどい人類の試金石だ。/この悔いあらためた懀まれものが/身をかけて自ら試金石となった決心を/天然の理法よ願はくは聽け。/私の日時計は正午をさす。」

 この詩で、高村さんは、「悔いあらためた懀まれも」という表現をしています。これは自分のことを表現しているだけではなく、日本という国をも表現しているのでしょう。しかも、日本という国は「はじめて武器をすてて立」とうとしているのです。そのあり方を高村さんは、岩手の太田村山口という地で、自分がその試金石となって生きてみようとしているというのです。

 しかも、人類が「野蛮の域を脱しきれず」、「人権保障も遠い夢」の状態にあるとい う環境の中においてです。高村さんは、自身がその「試金石」となる決心をしたのです。そのことが、「自己流謫」なのでしょう。

 ロシアによるウクライナ侵攻を見ていると、高村さんが言うように、人類はまだまだ「野蛮の域を脱しきれず」、「人権保障も遠い夢」の中ですが、日本という国、そしてそこで生きている私たちは、果たして高村さんが言う、「試金石」という立ち位置に立ちつづけて行くことができるのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン