シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

良寛さんと宮沢賢治さん(13)

 ここまで、阿部さんの研究に全面的に依拠して良寛さんの乞食僧としての生き方を見てきました。では良寛さんの生き方から現代社会に生きている自分は何を学べばよいのでしょうか。私自身は、仏教における真の「悟り」とは何かということを知りたくて良寛さんの生き方に関心をもって、参照してきたのではありません。個人的には、終活の一環として、残りの人生をどのように生きることが、自分なりに少しでも自分の人生への満足と充実感、そして納得感を実感して最後のときを迎えることができるかという関心から、宮沢さんや良寛さんの生き方に関心をもってきたのです。この点で、阿部さんが良寛さんの生き方を「幸福への方程式」と評価していることに興味が惹かれます。しかも、幸福は、宮沢さんも生涯を通して究めようとしていたテーマでした。

 阿部さんも、良寛さんの残したもので、和歌や詩、そして墨蹟などはどれだけ素晴らしいものであっても、21世紀の現代社会に生きる人々にとっては日常生活から遠いものとなってしまっているだけでなく、それを楽しむには「それなりの努力も必要」になり、誰もが親しめるものではないと指摘しています。普通に生きる「現代の人々が一番ちかづきやすいのは、彼が仏教者として生きた生き方そのもの」ではないかと言っています。しかし、阿部さんのそのことば、評価に異を唱えるつもりは毛頭ないのですが、個人的には、良寛さんの生き方は最も近づきがたく、難しいもののように感じます。真似しようと思っても真似できるものでは、決してないように思います。ただ、ほんの少しでも、自分ができることに限られたものにはありますが、良寛さんの生き方の精神を生かした生き方を、自分の残された人生の中で行うことができれば、もしかしたら自分の人生に納得した最後が迎えられるような気はします。

 良寛さんの生き方とは、福田の乞食僧としての実践ですが、「それは階級、財力、性別、世代なども違いを越えて、彼に喜捨を与えて乞食を支えてくれたあらゆる人に感謝しつつ、彼らにどうやったら福をえられるか、幸福になれるか、を示す実践だ。良寛はそれを説教して説いたのではない。ただ黙々と自らそれを行い、幸せを得る道を人に示した。その根幹にあるのが、人を分け隔てしない(大慈大悲)、人に優しい言葉をかけて励まし慰める(愛語)、人を傷つけることは言わない(「戒語」)の三点」です。

 良寛さんが厳しく、苦しい修行の末到達したあらゆる煩悩や仏教が悪と見る欲望から自由になるという「悟り」の境地、およびすべての人と分け隔てなく接するという福田の実践は、普通の人にとってはとてつもなく困難な生き方です。また、乞食という姿かたちだけ真似して生きるということも、現代社会では、なななかできることではないと感じます。

 ここで、少し横道に逸れることになるのですが、宮沢さんの生き方に関心をもち、その流れで良寛さんの生き方に関心をもったことで、「遍路旅」についても、文献の上でのことですが、関心をもちました。そのことに関する本を読む中で、とくに四国の遍路旅には、病気や経済的行き詰まり、生きる希望を失い、生活に窮するようになった人たちが、自らの生きる希望をつなぎ、かつ自分の面目を保つことができる生きる道として、乞食をしながらの遍路旅があったことを知りました。そして、そうした時代の人たちが、絶体絶命の窮状に陥った人たちのための生きるすべを社会的に創造していったことに感動を覚えました。現在の生活保護者に対する世間の冷たい風潮と比較し、当時の庶民の人たちのやさしさにも感動を覚えました。

 また、苦しむ人を救うというための形には、一つではなく実にさまざまな形があるのだな、ということに気づきました。それまでは、そしてそれは宮沢さんもそうだったのではないかと推測するのですが、人を救うとは、食事の糧やお金などの物質的なものだけでなく、直面している苦しみから逃れるためのアドバイス、知識や教え、そして苦しむ人に寄り添うなどの精神的なものまでの何らかのものを与えることが人を救う行為だと考えていました。ところが、良寛さんの人生に関心をもったことで、人から自分が生き、生活するためのものを布施または喜捨してもらうことが人を救うことになるのだということを知ったのです。すなわち、乞食をするということは、人のその人が善行を積む機会と、そのことで幸福となる道を提供するという人の救い方があったのですね。驚きです。ただ、それには布施・喜捨を受ける人が煩悩や悪徳となる欲望から自由になっていなければならないという極めて高いハードルが存在しているのですが。

 それでも、良寛さんが実践した修行道の、「人を分け隔てしない(大慈大悲)、人に優しい言葉をかけて励まし慰める(愛語)、人を傷つけることは言わない(「戒語」)」という三つの実践の内、後者の二つの実践に関しては、良寛さんのようにはいかないけれど、なるべくという条件付きでチャレンジすることはできそうだなと感じます。とくに、自分の家族など身近な人たちに対しては、「愛語」と「戒語」の姿勢で接しようと思います。そのことで少しでも自分自身も幸せな気持ちになれればと思うのです。

 阿部さんによれば、良寛さんが最も嫌ったことは、人と人との間に不和と分断をもたらし、争い、憎しみ合うような状況を生み出すようなことやものであったといいます。だからこそ、良寛さんは、「愛語」と「戒語」の姿勢で人(人だけでなくすべての存在物に対して)接することで、「幸せに生きるとは、他者に幸せを与えつつ生きることだ」という「幸福を得る方程式」を示そうとしたのです。

 そして、その良寛さんの実践は、「我欲を抑え、他者を思いやることは人間だけでなく、人が自然と良い関係を取り結んで共存することにつながるものだ。一人が悟りを開けば大地もそこに生きる命あるすべてが成道する」という、道元さんの言葉によれば「大地有情同時成道」という仏国土建設への道でもあったのです。なるほど、そうなのかもしれないと感じます。自分の身の回りというまことにささやかな空間世界のことだけだと言われれば、そうなのですが。そうしたささやかな空間世界の仏国土の輪が、それこそ、世界中に広がることを夢見たいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン