シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

国柱会に入会す

 宮沢さんは1920年の10月に宗教団体国柱会に入会します。そして、その12月に手紙で農林高等学校の友人であった保阪嘉内さんに「今度私は国柱会信行部に入会致しました」と報告するのでした。

 『塔建つるもの―宮沢賢治の信仰』の著者である理崎さんによれば、「『信行部』とは何か。会員募集要項には信行部が会費12円、研究部2円40銭、協賛部は会費なし、となっている。つまり外部協力者が協賛部で、入会するか研究して考えたい者が研究部、信行部は正式会員と考えられる」のです。宮沢さんは入会するときにすでにかなりの確信をもって国柱会に入会したことになります。

 では国柱会とはどのような宗教団体なのでしょうか。『宮沢賢治』の著者である岡田さんによれば、「日蓮主義を唱導する田中智学」さんによって創設された団体です。そして、その活動目的は次のごとくであったといいます。

 「日本建国の元意たる道義的世界統一の洪猷(こうゆう)を発揮して一大正義の下に四海の帰一を早め、用(もつ)て世界の最終光明、人類の究意(くきよう)救済を実現するに努むるを以(もつ)て主義と為(な)し、之(これ)を研究し之を体現し、之を遂行するを以て事業となす」というものでした。

 また田中さんの思想の特徴は、日蓮主義と当時の天皇制国家体制とを結びつけたところにあったそうです。理崎さんによれば、その活動「スローガン『八紘一宇(はつこういちう)』は智学の造語である。『八紘』とは世界、それを『一宇』、一つの家にするという。つまり、世界を日本の国体思想の元に統一しようという」ものです。

 田中さんの思想や行動の背景には、明治維新以降の廃仏毀釈運動によって衰退して行っていた仏教の再興を図る狙いがあったと言われています。廃れて行きつつあった仏教の価値を再び社会に認知してもらうため、その思想も活動も激越なものとなったのだと指摘されています。

 では以上のような田中さんの思想や活動、そしてその思想を体現するため創設された国柱会の活動をどのように評価したらよいのでしょうか。戦後の日本社会に限って言えば、戦前の天皇制国家体制と侵略戦争を美化し、唱導した軍国主義ファシズムの思想と活動であったと厳しい批判に会ってきたのではないでしょうか。

 また田中さんの言動や主張には、宮沢さんの感性や思想とはかなりかけ離れ、矛盾するような激しいものがあったようです。その一つの例として、悪者はどしどし殺してもよいという主張もあったというのです。この点を指摘しているのが、『宮沢賢治法華経』の著者である松岡さんです。その主張とは、

 「今日の様な悪い人間どもは養生も何も入らない、どんどん不養生して早く死んで了(しま)ふがよろしい、養生する要のあるのは、わが身が道の身であるからである。道を損ひ世を害ふような人間なら、ドンドン自殺でも何でもするがよろしい……実は国の害になる様な人間は何とか方法を設けて、ズンズン殺して了ふ様にせねばならぬ。養生などは以ての外である。悪人は何か面白い夢でも見せて居る内に、楽に死ねる様にしてやる方が慈悲である」(『日蓮主義教学大観』)というものです。

 この田中さんの主張に松岡さんは次のようにコメントしていました。「『法華経』に示される不軽菩薩の人間尊重の信仰、それと対極にある無慈悲さが、この智学の言説からみてとれよう。悪人どもは世のため国のためにどんどん殺してしまえ、という智学の主張を目にした時、賢治はいったい何を感じただろうか。虫けらにも同情を寄せた賢治が、かくも酷薄な思想に賛同できたとは到底思えない」のですと。

 宮沢さんは、なぜ松岡さんが指摘するような無慈悲で、酷薄な主張をしていた田中さんが率いる国柱会へ、決して一時の気の迷いではなく、ある意味確信をもって入会したのでしょうか。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

社会学的人間観

 これからいよいよ法華経の布教・伝道者および仏国土の建設者としての宮沢さんの人生の歩みをたどってみようと思います。その手始めとして、ここでは、社会学的人間観について触れておきたいと思います。宮沢さんの人生の歩みを理解するためです。

社会学は人間の精神的生活に限っても、「知情意」の統体的存在として把握します。なぜならば、社会学が研究対象とする人間とは何よりも社会生活における行為主体としての人間だからなのです。

 ところが、近代以降の人間観の特徴は、合理的・科学主義的人間観であるといってもよいのではないでしょうか。この近代的な人間観によれば、人間らしさのシンボルとは知性理性です。私たちが生きている世界の認識にとって最も重視することは事実(matter of fact)です。そして人間個人を思考主体(a subject)として把握します。

 しかし、この思考主体の思考活動とは、社会学的に見ると、実際の社会生活から、そして社会生活の中における人間関係から切り離され、距離をおいた個人の内的な生活世界における活動なのです。

 近代以降の時代は、この個人の内的生活世界における合理的・科学主義的人間観に至上の価値をおくことによって、「理性」の時代と考えられてきました。しかし、そう言うとき、理性という言葉によって意味されるのは、知的なもの、知性的なものに限られ、感情・意志的生活は、むしろ不合理なものとして理性と対立させられてきました。

 この合理的・科学主義的人間観を批判し、人間の他者との関係性における社会的世界における生活活動の主体としての人間観を主張したのが、スコットランドの哲学者であったジョン・マクマレーさんです。

 マクマレーさんは、人間を生活活動の主体として見るときには、理性ということに関しても感情や意志の理性こそが第一義的に重要であると論じていました。「理性とは、自分自身でないものの本性の見地から、意識的に行動する力能のことである」というのがマクマレーさんの理性に関する定義です。さらに言えば、彼は、理性とは自分ではない他者の存在価値を認識し、その価値を大切なものとして関係しようとする力であるとしているのです。

 この人間理性の最高のメディアこそが愛であり、感情や意志に属するものなのです。そしてその正反対のメディアが自己中心的な私欲なのです。私欲は自分以外の外の世界を手段し、道具視するメディアです。すなわち、「わたしたちが、外の世界を自己の私的な欲求満足のために存在していると見做すとき、わたしたちは、自己中心的なの」です。

 マクマレーさんは言います。「感情生活における理性が、わたしたちが生活している世界の真の諸価値の見地からわたしたちの行動を規定する。感情生活の理性が、善と悪、正と不正、美と醜、そして、……(世界の)無限に多様な諸価値のすべてを発見し、示してみせてくれるのである。感情生活の具体的な生の営みにおける人間本性の発展とは、事実としては、感情理性の発達なの」ですと。

 愛はこの感情理性を現実のものとする、すなわち精神的なものを具体的な行動や活動に媒介するメディアです。すなわち、「愛は、人間存在に特徴的、根本的、そして積極的な感情」なのです。しかし、同時にマクマレーさんは、愛という感情は常に理性的であるとはかぎらず、自己中心的で不合理な側面もあるということに注意を促しています。

 愛は、「主観的で不理性的でもあり、または、客観的で理性的でもありえる。他の人に愛を感じているとき、その人が与えてくれる楽しい感情を経験することもできるし、また、自分が相手を愛することもできる。それゆえ、わたしたちは、自分自身に、自分が愛しているのは、本当に相手の人であるのか、または、自分自身でないのかを、問うてみなければならない。……そして、相手を自分と一緒にいてくれて自分を楽しみつづけてくれる道具と考えているのか、相手の存在と現実性をそれら自身かけがいがないものであると感じているのかどうかを問うてみなければならない」のです。

 ここまで見てきたように、人間の意志や感情の理性性を重視するマクマレーさんは、人間の精神的活動を総体的に捉えるためには、単に科学的活動だけに注目するだけではだめで、宗教と芸術活動にも注目しなければならないことを主張しているのです。すなわち、人間の精神的活動とは宗教、芸術、そして科学のそれぞれの活動と相互関連的活動の総体的なものとして存在しているのです。またマクマレーさんは、人間の精神的活動の三つの形態の中で宗教こそが第一義的であると言います。

 それは、マクマレーさんは、人間個人を何よりも行為主体(an agent)として把握する重要性を主張するからです。そのとき、私たちが生きている世界との関係でより重要となるのは行為している人の意志・意図の問題(matter of intention)なのです。この点では、科学的活動は、「自己の利益を第一義的に考え、その自己の利益の極大化のため」に行う行動の中でも働く活動となりうるのです。

 少々長くなりましたが、ここまで参照してきたマクマレーさんの人間の精神活動に関する議論は、宮沢さんが法華経の布教・伝道および仏国土の建設のためにとったさまざまな行動を理解するために大いに参考になるのではないでしょうか。宮沢さんの活動で重視したのは、やはり宗教、芸術、そして科学でした。それらが宮沢さんの活動の中でどのような意味をもっていたのかを探究することも興味あるテーマなのではないでしょうか。

 このテーマに関してさらに言っておくならば、上記の人間の精神的活動の三つの中で宮沢さんが最も重視したのはやはり宗教でした。そのことに関して、『宮沢賢治』の著者である岡田さんが次のような指摘をしていました。それは宮沢さんが生きていた時代の時代・社会認識に関わるものです。

 「賢治の言葉で言えば、現実は偶然盲目的な修羅の様相を呈し、ただ科学によってのみ変革が可能であるように見受けられる。しかし、賢治は宇宙には宇宙意志があって、あらゆる生物を幸福に至らしめるものと信じていた。ただそこまで至らない道程の中で無上道に行きつくための宗教、祈りがあると考えたのであった」のですと。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

信仰と世俗倫理・人情(3)

 宮沢さんの人生の歩みを社会学の目で見ると、信仰と家族との関係も重要なテーマとなるように思います。宮沢さんの人生の歩みを少しでも理解するために仏教関係の本を読みながらそのテーマの重要性に気づくことになったからです。

 個人的な理解になりますが、仏教には親・兄弟・姉妹よりも仏(および師)の教えに従うこと、そして苦しむ人たちの救済と幸福祈願を優先する哲学があるように思えます。そうした哲学を信仰することが、他の家族メンバーや自分の自然感情とどのような衝突や葛藤を生み出すのか、社会学的興味に惹かれます。

 再度道元さんに登場していただくなら、彼は、「父母のため、師匠のためなどと恩愛の道に執(とら)われて、無益なことをして、徒(いたずら)に時を過ごして、仏道の修行をさしおいて、空しく時を空費してはならない」との教えを強調したと言います。

 親鸞さんは、「父母のために念仏を称えたことはない」のだそうです。『親鸞 救いの言葉』の著者である宮下真さんはその理由を次のように解説します。

 「すべての生あるものは、みな死んでは生まれ変わること(輪廻転生:りんねてんしょう)をくり返しているあいだに父母、兄弟ともなる縁が生じている。いずれもみな自分が仏に成ったときには平等に救うべき人たちなのだ。一切のいのちは大いなる縁でつながりあっていて、父母だけが特別なのではない。まして念仏というのはこの世を生きる者のために仏から届けられたものであって、亡き人の追善供養に利用するものではない。だから孝行のためにと念仏を称えたことは一度もない」のですと。

 さらに、「亡き親も仏に護られていると安心するなら念仏を称えてもいいではないかと、という凡人の考えをエゴだときっぱり否定するのもまた親鸞」さんなのです。こうした仏教における家族関係に関する倫理は、血縁関係にある者へ特別の感情をもち、優先してしまう人情や祖先崇拝という習俗をもつ日本人の生活倫理と衝突し、ときには激しい葛藤を引き起こさせるのではないでしょうか。

 事実、宮沢さんは、自己の世界観形成の過程においても、お互いに支え合い、磨き合ったであろう妹のトシさんが亡くなったとき、その感情の衝突・葛藤を経験することになります。宮沢さんは、そのためトシさんが亡くなったあとの「喪の仕事」に相当の時間を要しています。すべての人の幸福と救済をめざすことは、ことばとしては簡単かもしれませんが、感情的には非常に高いハードルが存在していると言えるのではないでしょうか。

 また宮沢さんは、輪廻転生論から、ただ単に人間にだけ憐れみと平等意識をもっただけでなく、命あるすべてのものに憐れみと平等意識をもっていたと言われています。そのことが宮沢さんの食生活に大きな影響を与えたのです。

 そのことに関しては、松岡幹夫さんが自著『宮沢賢治法華経 日蓮親鸞の狭間で』の中で宮沢さんの「共生倫理」として体系だって論じています。このテーマに関心のある方は松岡さんの本を参照していただければと思います。

 松岡さんは、宮沢さんは「食べられる動物等への同情心にあふれていた」とし、友人の保坂さんへの次のような手紙を紹介しています。「私は春から生物のからだを食ふのをやめました……。もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。……一切の生あるもの生なきものの始終を審に諦(つまびら)かに観察したら何か涙でないものがありませうや」というのがそれです。

 このことから松岡さんは、宮沢さんは「過去世に自分もまた動物だったと信じ」ていたのではないかと推測するのです。その上で松岡さんは、宮沢さんの人物像と思考構造に関し重要な指摘を行います。

 「賢治がベジタリアンになったのは、自分と食べられる動物との一体化感情のゆえである。そこでは、まず〈自己〉への執拗な関心があり、その〈自己〉が無限のつながり――大乗仏教でいう『縁起』の世界――の中であらゆる他者へと拡散し、食べられる動物にも涙する自分となっていく。これが賢治の思想構造である」というのがその指摘です。

 松岡さんは言います。「賢治の一生は他者に尽くし抜いたイメージで彩られている。『賢治ボサツ』と呼ぶ人もいるという。しかし、私は逆に、賢治ほど自分のことばかり気にして生きていた人も珍しいと思っている」のですと。私もそうした実感をもっています。宮沢さんの「永訣の朝」という心象スケッチにいままさに死に直面している妹トシさんの次のようなことばが記されています。「(うまれでくるたてこんどはこたにわりゃのごとばがりでくるしまなぁよにうまれでくる)」というのがそれです。しかし、このことばは宮沢さん自身についても同じことがあてはまるものだったのではないかと感じてきました。

 宮沢さんの人生の歩みに関して同じ実感をもっている方がいるのだなと受け止めました。それは、宮沢さんが自己中心的な人であったということを指摘しようとするものでは決してないのです。個人的な考えですが、宮沢さんは自分がどう生きていったらよいのかという自分の内なる声が止むことのなかった人生の迷い人だったからこそ、「自分のことばかり気にして生き」ざるをえなかったのではないでしょうか。

 宮沢さんは私たちが生活しているこの娑婆世界に仏国土を建設することを自己の使命としていたことと関連して、彼が生きていた時代の経済・社会制度およびそれらを包括している政治体制とどのように向き合ったのだろうかということも、宮沢さんの人生の歩みを社会学の目で見るとき、重要なテーマではないかと思います。

 この点に関して言えば、階級闘争を含む経済利害的・政治的・権力闘争的争いごとに関することがらからは心的距離をおき、善悪や是非論的判断を留保し、観察者としての立ち位置をキープしていたのではないかと推測します。

 なぜそうした心的姿勢を取り続けたのでしょうか。その大きな要因のひとつは、やはり自分が地方財閥の一員に属していたという社会的立場にあったからではないでしょうか。小さいころから規制の社会・政治体制を批判・否定する危険思想に染まらないよう心配され、育てられてきています。それでも、宮沢さんは、自分の社会的立場に「罪」の意識を感じていました。

 1932年の母木光さん宛の手紙の中でそのことを次のように告白しています。「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいつてゐるので、目立つことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあつて来てゐるのです」と。

 とりわけ宮沢さんが「救済」の対象として心を寄せようとしていた貧しくて社会的弱い人たちから、より敵意とあざけり、そして差別的な視線を向けられてきたことにたえず心を痛めていたのではないでしょうか。

 もう一つの要因としてやはり仏教の教えに忠実に従おうとしたからではないかと考えます。道元さんは、「仏道を求め、仏道を修行する者にきびしく要求したのは、人情を捨てること」でした。そして、その捨てるべき「人情」の最たるものとは、善悪・是非の判断だったのです。

 「世間の人が善だ、悪だというようなことを全部忘れて、さらに自分でこれは善いこと、これは悪いことと考えるようなつまらぬことも全部捨て去り、ただひたすら仏教に随っていきねばならない」というのが道元さんの教えでした。

 なぜなら善悪や是非の判断には自己利害と私心が入り込むからなのです。「とくに是非の判断になると、どうしても、己の利、自分の立場、自分に都合のよい観点からこれが判断される。一言でいうならば私心がつくのである」というのです。

 そしてこの自己利害と私心を妥協なく押し通そうとすることで争いごとが生じます。「夫(そ)れ自(みずか)らを是(ぜ)とし、彼(かれ)を非(ひ)とす、己(おのれ)を美しくし、人を悪(にく)む。物然(ものしか)らざることなし。もつて皆然(しか)るが故に、世を挙(あ)げて紛紜(ふんうん)(みだれる)として自ら正す者なし」というのが世の常なのです。

 世の争いごとへ向き合う宮沢さんの心的態度もそうした仏教の教えに従っていたのではないでしょうか。

 

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信仰と世俗倫理・人情(3)

 宮沢さんの人生の歩みを社会学の目で見ると、信仰と家族との関係も重要なテーマとなるように思います。宮沢さんの人生の歩みを少しでも理解するために仏教関係の本を読みながらそのテーマの重要性に気づくことになったからです。

 個人的な理解になりますが、仏教には親・兄弟・姉妹よりも仏(および師)の教えに従うこと、そして苦しむ人たちの救済と幸福祈願を優先する哲学があるように思えます。そうした哲学を信仰することが、他の家族メンバーや自分の自然感情とどのような衝突や葛藤を生み出すのか、社会学的興味に惹かれます。

 再度道元さんに登場していただくなら、彼は、「父母のため、師匠のためなどと恩愛の道に執(とら)われて、無益なことをして、徒(いたずら)に時を過ごして、仏道の修行をさしおいて、空しく時を空費してはならない」との教えを強調したと言います。

 親鸞さんは、「父母のために念仏を称えたことはない」のだそうです。『親鸞 救いの言葉』の著者である宮下真さんはその理由を次のように解説します。

 「すべての生あるものは、みな死んでは生まれ変わること(輪廻転生:りんねてんしょう)をくり返しているあいだに父母、兄弟ともなる縁が生じている。いずれもみな自分が仏に成ったときには平等に救うべき人たちなのだ。一切のいのちは大いなる縁でつながりあっていて、父母だけが特別なのではない。まして念仏というのはこの世を生きる者のために仏から届けられたものであって、亡き人の追善供養に利用するものではない。だから孝行のためにと念仏を称えたことは一度もない」のですと。

 さらに、「亡き親も仏に護られていると安心するなら念仏を称えてもいいではないかと、という凡人の考えをエゴだときっぱり否定するのもまた親鸞」さんなのです。こうした仏教における家族関係に関する倫理は、血縁関係にある者へ特別の感情をもち、優先してしまう人情や祖先崇拝という習俗をもつ日本人の生活倫理と衝突し、ときには激しい葛藤を引き起こさせるのではないでしょうか。

 事実、宮沢さんは、自己の世界観形成の過程においても、お互いに支え合い、磨き合ったであろう妹のトシさんが亡くなったとき、その感情の衝突・葛藤を経験することになります。宮沢さんは、そのためトシさんが亡くなったあとの「喪の仕事」に相当の時間を要しています。すべての人の幸福と救済をめざすことは、ことばとしては簡単かもしれませんが、感情的には非常に高いハードルが存在していると言えるのではないでしょうか。

 また宮沢さんは、輪廻転生論から、ただ単に人間にだけ憐れみと平等意識をもっただけでなく、命あるすべてのものに憐れみと平等意識をもっていたと言われています。そのことが宮沢さんの食生活に大きな影響を与えたのです。

 そのことに関しては、松岡幹夫さんが自著『宮沢賢治法華経 日蓮親鸞の狭間で』の中で宮沢さんの「共生倫理」として体系だって論じています。このテーマに関心のある方は松岡さんの本を参照していただければと思います。

 松岡さんは、宮沢さんは「食べられる動物等への同情心にあふれていた」とし、友人の保坂さんへの次のような手紙を紹介しています。「私は春から生物のからだを食ふのをやめました……。もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。……一切の生あるもの生なきものの始終を審に諦(つまびら)かに観察したら何か涙でないものがありませうや」というのがそれです。

 このことから松岡さんは、宮沢さんは「過去世に自分もまた動物だったと信じ」ていたのではないかと推測するのです。その上で松岡さんは、宮沢さんの人物像と思考構造に関し重要な指摘を行います。

 「賢治がベジタリアンになったのは、自分と食べられる動物との一体化感情のゆえである。そこでは、まず〈自己〉への執拗な関心があり、その〈自己〉が無限のつながり――大乗仏教でいう『縁起』の世界――の中であらゆる他者へと拡散し、食べられる動物にも涙する自分となっていく。これが賢治の思想構造である」というのがその指摘です。

 松岡さんは言います。「賢治の一生は他者に尽くし抜いたイメージで彩られている。『賢治ボサツ』と呼ぶ人もいるという。しかし、私は逆に、賢治ほど自分のことばかり気にして生きていた人も珍しいと思っている」のですと。私もそうした実感をもっています。宮沢さんの「永訣の朝」という心象スケッチにいままさに死に直面している妹トシさんの次のようなことばが記されています。「(うまれでくるたてこんどはこたにわりゃのごとばがりでくるしまなぁよにうまれでくる)」というのがそれです。しかし、このことばは宮沢さん自身についても同じことがあてはまるものだったのではないかと感じてきました。

 宮沢さんの人生の歩みに関して同じ実感をもっている方がいるのだなと受け止めました。それは、宮沢さんが自己中心的な人であったということを指摘しようとするものでは決してないのです。個人的な考えですが、宮沢さんは自分がどう生きていったらよいのかという自分の内なる声が止むことのなかった人生の迷い人だったからこそ、「自分のことばかり気にして生き」ざるをえなかったのではないでしょうか。

 宮沢さんは私たちが生活しているこの娑婆世界に仏国土を建設することを自己の使命としていたことと関連して、彼が生きていた時代の経済・社会制度およびそれらを包括している政治体制とどのように向き合ったのだろうかということも、宮沢さんの人生の歩みを社会学の目で見るとき、重要なテーマではないかと思います。

 この点に関して言えば、階級闘争を含む経済利害的・政治的・権力闘争的争いごとに関することがらからは心的距離をおき、善悪や是非論的判断を留保し、観察者としての立ち位置をキープしていたのではないかと推測します。

 なぜそうした心的姿勢を取り続けたのでしょうか。その大きな要因のひとつは、やはり自分が地方財閥の一員に属していたという社会的立場にあったからではないでしょうか。小さいころから規制の社会・政治体制を批判・否定する危険思想に染まらないよう心配され、育てられてきています。それでも、宮沢さんは、自分の社会的立場に「罪」の意識を感じていました。

 1932年の母木光さん宛の手紙の中でそのことを次のように告白しています。「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいつてゐるので、目立つことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあつて来てゐるのです」と。

 とりわけ宮沢さんが「救済」の対象として心を寄せようとしていた貧しくて社会的弱い人たちから、より敵意とあざけり、そして差別的な視線を向けられてきたことにたえず心を痛めていたのではないでしょうか。

 もう一つの要因としてやはり仏教の教えに忠実に従おうとしたからではないかと考えます。道元さんは、「仏道を求め、仏道を修行する者にきびしく要求したのは、人情を捨てること」でした。そして、その捨てるべき「人情」の最たるものとは、善悪・是非の判断だったとのです。

 「世間の人が善だ、悪だというようなことを全部忘れて、さらに自分でこれは善いこと、これは悪いことと考えるようなつまらぬことも全部捨て去り、ただひたすら仏教に随っていきねばならない」というのが道元さんの教えでした。

 なぜなら善悪や是非の判断には自己利害と私心が入り込むからなのです。「とくに是非の判断になると、どうしても、己の利、自分の立場、自分に都合のよい観点からこれが判断される。一言でいうならば私心がつくのである」というのです。

 そしてこの自己利害と私心を妥協なく押し通そうとすることで争いごとが生じます。「夫(そ)れ自(みずか)らを是(ぜ)とし、彼(かれ)を非(ひ)とす、己(おのれ)を美しくし、人を悪(にく)む。物然(ものしか)らざることなし。もつて皆然(しか)るが故に、世を挙(あ)げて紛紜(ふんうん)(みだれる)として自ら正す者なし」というのが世の常なのです。

 世の争いごとへ向き合う宮沢さんの心的態度もそうした仏教の教えに従っていたのではないでしょうか。

 

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信仰と世俗倫理・人情(2)

 宮沢さんが仏教的世界観(宮沢さんは法華経の行者をめざして生きていくことを決意していくのですが、世界観という点から見ると、より幅広い信仰をたえずアップデートしつつ自己のものとして形成していったのではないかと思います。ここではそのうち、その中核を占めているものと考えられる仏教信仰に焦点をあてて考察することとしたいと思います。)を自己の内的態度とすることで自らの日常生活を規制することになった生活倫理とはどのようなものだったのでしょうか。特徴的なものだけに絞って確認しておこうと思います。

 まずこの確認のために鎌田さん著の『正法眼蔵随聞記講話』を参照することにします。なぜならば、道元さんは仏法のために世俗の倫理や人情を捨てることを最も徹底して要求することを主張しているように思えるからです。

 鎌田さんの解説によれば、「仏法は人生のためのものではない。人生が仏法のためにあるのである。この道元の覚悟(かくご)は世俗の価値を根本的に否定し、永遠の真理、すなわち仏法のみにすべての価値を置くことにもとづ」いているのです。

 道元さんはまた次のようにも言っていたといいます。「真理の前、仏法の前には自己は無でなければならぬ」。なぜならば、「真理を体現した自己が尊いのではなく、自己に体現せられた真理が尊い」のだからです。

 ではこうした何よりも仏法という真理を優先することは、どのような世俗倫理、そして人情とぶつかることになるのでしょうか。まず自己の命の重みの感情と倫理とが衝突します。道元さんは言います。「自己の身命は仏法の前には無に等しい」と。

 鎌田さんはそれを、「普通の価値観からすれば、何をさしおいても身体が大切である。死んだら何にもならない、と考えるのがわれわれである。しかるに道元は発病して死んでもよいから修行せよ、というのである」と解説しています。「命あっての物種」というのが私たちの生きていく上での常識なはずです。

 道元さんは、「男女の愛欲」に関しても、とくに出家僧にはかなり厳しい要求をします。道元さんは、「我執を離れよ」、すなわち「男女の愛欲」を離れよと要求するのです。鎌田さんの解説によれば、「我執には分別(ふんべつ)の我執と倶生(くしよう)の我執があるという。分別の我執とは環境的に生じた我執であり、倶生(くしよう)の我執とは、逃れることのできない我執である。知的な迷いと情意的な迷いといってもよい」のですと。そして、「男女の愛欲」こそ、「倶生(くしよう)の我執」の典型的なものなのです。

 すなわち「頭ではこの愛情は破滅(はめつ)の道しかないことは充分に分かっていても身体が承知しない。身体が識ってしまった悦楽(えつらく)を断ちきることは難しい。……だからこそ男女の愛情は業(ごう)としかいいようがないのだ。その業は死んでも残ってゆく。死とともに消えるものではない」のです。

 確かに「道ならぬ男女の愛欲は破滅(はめつ)への道」ということが少なくないかもしれません。しかし、一方では、人を愛し、恋する関係性には、生きる喜びとなる素晴らしい、そして美しい側面もあるのではないでしょうか。社会学は人間関係におけるその後者の可能性を重視します。

 スコットランドの哲学者にジョン・マクマレーさんという人がいました。人が人を愛する関係性に、知性理性よりもさらに高い理性性があると論じた人、それがマクマレーさんなのです。彼は「愛」にこそ人間最高の理性が存在していると考えていました。

 鎌田さんも、「男女の関係はお互いに愛しあう」側面があるとも解説しています。しかし、その後すぐに、「とともにお互いに傷つけあう関係であり、まさしく業としかいいようがない」のですとつづけているのですが。

 マクマレーさんが言う知性理性よりさらに高い人間最高の理性とは、自己ではない他者の価値を認識し、大切にするような形での他者との関係性のことです。そのメディアが「愛」という感情なのです。そのため「愛」は恋愛だけに見られるものではなく、さまざまな人間関係においても求められるのです。

 マクマレーさんは言います。人を「愛」することはすばらしいことなのです。どんどん人を「愛」してくださいと。同時に、しかし、そのとき、その愛は、自分を愛しているのか、それとも本当に他者(ひと)を愛しているのか自分自身に問うてくださいと強調するのでした。「私たちが、外の世界を自己の私的な欲求満足のために存在していると見做すとき、私たちは自己中心的なのです」と。

 驚いたことに、実は道元さんも同様の議論を行っていたのです。鎌田さんによれば、「道元は『正法眼蔵』の『礼拝得髄』のなかで男女の平等について述べているが、とくに女性を性欲の対象と見てはならないことを強調」しているのです。

 また女性は古来から「染汚(けがれ)」的存在として、聖なる場所から排除されるということがありましたが、道元さんは「人間の相(すがた)は染汚(けがれ)そのもの」であり、男性もそれから自由になるものではないと言うのです。「女性を性欲の対象と思う心を改めなければ仏者にはなれないという。若し女性を性欲の対象とみて軽蔑(けいべつ)するならば、男性もまた嫌うべき、いとうべき存在となる。けがれの因縁となることは、男性も女性も変わりがない」のです。

 宮沢さんはかなり早熟な人であったと言われています。このブログでも取り上げたように、中学校卒業直後の入院生活の中で、担当であった看護師の人に恋をし、結婚まで考えています。春画の収集もしていたと言われています。そして、それらのことは、日常の生活倫理からすれば、ごく普通のことであり、むしろ性的には健康なことであるはずです。

 先に参照したマクマレーさんは、多くの恋を経験することを奨励しています。なぜならば、人を好きになることで、自分以外の人の存在の価値を認識することを学び、より人間性を高め、育てることができるからなのです。たとえその恋が実らず、破綻することになっても、人を「愛する」ことの経験は人の感情を豊かにする上で、何ものにも代えがたいほどの経験になるだろうと論じていました。

 しかし、宮沢さんは結婚し、家族を創ることをしないことを決意するのです。1918年9月の保坂さんへの手紙の中で、「今後の繋累は断じて作らざる決心」であることを宣言していたのです。

 その「決心」をするに至った要因はきっとさまざまあるのだとは思いますが、やはり法華経の行者として生きていくことを覚悟していたことが大きかったのではなかったかと推測します。その覚悟を父に手紙で伝えたのが、同年2月のことでした。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

信仰と世俗倫理・人情(1)

 法華経の布教・伝道師および仏国土の建設者として歩むことを決心した宮沢さんが、その第一歩として行ったことは、童話をつくり「家族の前で読んで聞かせる」(吉田さんの年表)ことでした。それは、「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」という二つの童話でした。

 宮沢さんが「父に法華経行者として生きたいと手紙で伝え」(吉田さんの年表)のが1918年2月、宮沢さん22歳のときでした。その手紙には、「先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教え又給し」(『新校本宮沢賢治全集第十五巻』、以後「全集」と記述)たいと記されていました。

 さらに、「依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし」(「全集」)たいとの自分の将来の抱負を記していたのです。童話をつくり「家族の前で読んで聞かせ」たのは、同じ年の8月のことでした。

 その後どのような活動の道を歩んでいったのでしょうか。ここではすぐにその考察に入る前に、信仰と世俗倫理・人情との関係について簡単に考察しておくことができればと思います。なぜならば強い信仰や信念をもった活動は、ときとして社会や他者との関係性において、緊張をはらみ、摩擦・葛藤・対立を生み出すだけでなく、自分自身との感情との衝突も生み出していくことになるからです。

 とくに既存の社会の変革をめざす活動であればなおさらそうしたことが起こりやすいと考えられるのです。事実宮沢さんも法華経の布教・伝道と仏国土建設をめざす活動の中でそうした摩擦・葛藤・対立に直面し、精神的にも苦悩する経験に直面していくことになるのです。

 私たちが生きていく中で所属している社会(世界)は一つではありません。自分の意思とは無関係なものも含め、かなり多様で多元的な社会(世界)に属しているのです。しかも、私たちが属している諸社会(世界)におけるそれぞれの規範(私たちの行動や振る舞いを規制する社会的規則)は均質で調和的なものであるとは言えません。

 むしろ、かなり緊張を孕み、矛盾・摩擦・葛藤・対立してもいるのです。例えば、私の家族の常識は、別の社会(世界)では非常識というような関係性はいくらでもあるでしょう。

 また私たちが生きていく上で感じるさまざまな感情の社会(世界)で受け入れられる表出の仕方も、それぞれ属している社会(世界)で異なっています。そのため属している社会の違いで感情的衝突や対立が起こることも珍しくありません。さらに個人が感じる感情と社会(世界)が求める感情表出が衝突・対立することもかなり頻繁に起こりえます。

 日本の大家族制度の研究を行った有賀喜左衛門さんは、親方・子方関係において、親方は血縁者といえども非血縁者の子方同様に従属的な態度で接しなければならないことに関して、親密な血縁感情といえども、主従関係的な「この生活形態を通して示現され」なければならいことを指摘していました。そのため血縁者を主従関係におくような生活形態を認めることがただちに親密な血縁感情を無視するものでないことに注意を促していました。

 すなわち、有賀さんは、ただ単に思いやりや温かな感情だけでなく、打算であれ、冷酷であれ、もろもろの感情は、日本においては大家族的生活形態を通して「示現」していると見なければいけないと言うのです。私たちが日常生活の中で刻々感じる感情は、そのままストレートに表出されるわけではなく、私たちが属している社会それぞれの諸規範というフィルターを通過することで表出されているのです。そのために、自分が本来的に感じている感情と社会規範というフィルターを通して表出される感情とにはギャップが生まれ、ときには大きく衝突することにもなるのです。

 このブログを書いているとき、たまたまNHKの朝の連続ドラマである「エール」を見ていました。その舞台となっている時代は太平洋戦争の時代です。主人公のパートナーである音さんのお姉さんが軍人である夫が前線に出征する二人だけの別れの場面でした。彼女は出征しようとしている夫に「無事に帰ってきてください」という言葉をかけるのですが、「軍人の妻が無事帰って来てくださいというような言葉を口にするな」と夫に叱られるのです。

 では軍人の妻である彼女はどのような言葉をかければよかったのでしょうか。「お国のために立派に戦って死んで来てください」とでも言えばよかったのでしょうか。この場面だけでも、個人が自然に感じる感情と社会規範によって求められる形で表出される感情との衝突が生じているように思えます。そしてそれは彼女にとって非常につらいことではなかったかと推察されるのです。

 では法華経の行者となることを決心した宮沢さんは自分の感情をめぐってどのような葛藤・苦悩を経験することになるというのでしょうか。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

法華経が示す人を救う道とは(2)

 永遠の命をもっている仏さんが住んでいるところは、「三千大千世界」の中の「霊鷲山(りようじゆせん)」というところだそうです。ここを本拠地にして、仏さんは「三千大千世界」すべての世界を「仏国土」とすべく自己の教えを説いているといいます。

 法華経は言います。「常に霊鷲山(りようじゆせん)及(およ)び余(よ)の諸(もろもろ)の住処(じゆうしよ)に在(あ)り。衆生(しゆじよう)が劫尽(こうつ)きて 大火(たいか)に焼(や)かるると見(み)る時(とき)も 我(わ)が此(こ)の土(ど)は安穏(あんのん)にして 天人(てんにん)が常(つね)に充満(じゆうまん)せり」なのですと。

 鎌田さんは解説します。「このように無限の過去から成仏している仏が、実はこの娑婆(しやば)世界において説法教化(きようけ)している釈尊であるというのである。娑婆世界は、われわれ凡夫が住んでいるこの苦しみに満ちた小さな世界、現実の世界である。無限の空間、すなわち大宇宙から見れば、小さな太陽系のなかの、そのなかの一つの惑星にすぎない地球などは小さいものにすぎない。この小さな地球上の人間の住むこの娑婆世界において、仏はまず説法教化したのであ」りますと。

 中村さんも法華経の魅力を次のように述べています。「『法華経』が全体として日本人にひじょうにぴったりしたのは、娑婆がそのまま浄土になりうるという思想、つまり『常在霊鷲山』の思想のためです。われわれが生きているこの現世のなかに、理想の霊鷲山釈尊が常にいる霊鷲山が実現されるのだという考え方、これは日本人にぴんときたのだろうと思われます」と。

 宮沢さんもこの現世に仏国土を建設するという法華経の思想に共鳴したのではないでしょうか。そして宮沢さんの本願であった苦しむ一切の衆生を救うという道を切り開く方向性をえたのではないかと思います。すなわち、「この現世に仏国土を建設する」という方向性です。

 だとすると、次の2つの点が考察されなければなりません。その第一は、「この世」の現状をどのように認識・把握するのかという点です。第二の点は、「仏国土建設」のために自分は具体的に何をどうするかを決定することです。

 さらに、前者に関して言えば、「この世」にすでに「仏国土」は存在していると見るかどうかという問題です。なぜならば、法華経は、「三千大千世界」は「無限の過去から成仏している仏が」「説法教化」してきており、「娑婆がそのまま浄土になりうる」ことを示していたからです。道元さんはその仏法の真理を修行によって認識・把握することを出家者の役割としていました。

 『宮沢賢治法華経 日蓮親鸞の狭間で』の著者である松岡幹夫さんも次のように論じています。「日蓮法華経信仰」では、「苦悩の現実世界をそのまま寂光土とみる『娑婆即寂光』を説く経典なのである」のですと。

 しかし、宮沢さんは、少なくとも宮沢さんが生きていた時代の「この世」の世界即「仏国土」の世界と見ることはできなかったのではないかと思います。「この世」は、さまざまな(階級闘争的争いごとを含む)争いごとと仏教で言う「三毒」が充満している修羅世界となっており「変革」されなければならないと、宮沢さんは考えていたのではないでしょうか。

 考察されなければならない後者の点に関しては、法華経の「五百弟子授記品――生得の仏性を開く――」の中の「富楼那」さんに関する叙述が参考になるように思えます。その叙述とは、鎌田さんの解説によれば次のようなものです。

 「富楼那(ふるな)は過去、現在、未来の説法人のなかにおいても、説法の第一人者であった。富楼那は精進(しようじん)努力の人でもあった。そのために菩薩(ぼさつ)としての行いがすっかり身につくようになり、この世界において仏になることを仏に約束された。富楼那は法明如来(ほうみようによらい)という仏に」なったのです。

 また「富楼那は不惜身命(ふじやくしんみよう)の決意を説法に託し」ていました。「法を説くには、人を救うことであるという堅固な意志がなければ、伝道布教もできない」からだといいます。

 さらに、「当時の人々は富楼那は声聞(しようもん)だと思っていた。富楼那もまた方便(ほうべん)をもって人々を教化(きようけ)していた。『私も皆さんと同じようにまだ未熟の者です』と言いながら、ともに仏になる道を模索していた」のです。

 では、そうした富楼那さんの人を救うための仏法の布教伝道活動と仏国土建設とはどのように関係しているのでしょうか。さらに鎌田さんの解説を参照していきましょう。「法明如来(ほうみようによらい)となった富楼那(ふるな)は、無限に広い世界を、すべて仏国土にしようと教えを弘めていった。正しい仏の教えを聞けば、人の心は仏心となる。仏心となればお互いに慈しむようになる。すると、この人たちの住む世界は仏国土となる」のです。

 そして、一度「仏国土」が生まれると、「清浄な仏国土に生きる人は、大神通(だいじんつう)をえて体から光明を発し、飛行自在(ひぎようじざい)となる。……その人の人格が完成し、仏心をそなえることができるようになると、自然にその人の徳の感化力が周囲の人々に及んでゆく。これが光明を発するということです。

 『飛行自在』ということは、実際に空中を飛び回ることではなく、どんな場所、どんな境遇にあっても、自由自在に生きることができることである」のです。

 苦しむ一切の衆生を救いたいという本願をたてた宮沢さんは、法華経を学ぶ中で自分はこの「法明如来」となった「富楼那」と自分の将来を重ね合わせたのではないかと考えます。その導きの師は、もちろん仏(「釈尊」)さん自身です。後に日蓮さんが師となって行きます。さらに言えば、宮沢さんは、法華経を読んで身を震わすほど感動したとき、はじめは漠然とした状況だったかもしれませんが、法華経という絶対真理を説く仏さまを師として「仏法の布教伝道師」となることをめざして生きていこうと決心したのではないでしょうか。

 でもそのときは、まだ何をどのようにすれば「仏法の布教伝道師」になれるのか具体的な実践方法はハッキリしていなかったのではないかと推測されるのです。

 

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