シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

法華経が示す人を救う道とは(2)

 永遠の命をもっている仏さんが住んでいるところは、「三千大千世界」の中の「霊鷲山(りようじゆせん)」というところだそうです。ここを本拠地にして、仏さんは「三千大千世界」すべての世界を「仏国土」とすべく自己の教えを説いているといいます。

 法華経は言います。「常に霊鷲山(りようじゆせん)及(およ)び余(よ)の諸(もろもろ)の住処(じゆうしよ)に在(あ)り。衆生(しゆじよう)が劫尽(こうつ)きて 大火(たいか)に焼(や)かるると見(み)る時(とき)も 我(わ)が此(こ)の土(ど)は安穏(あんのん)にして 天人(てんにん)が常(つね)に充満(じゆうまん)せり」なのですと。

 鎌田さんは解説します。「このように無限の過去から成仏している仏が、実はこの娑婆(しやば)世界において説法教化(きようけ)している釈尊であるというのである。娑婆世界は、われわれ凡夫が住んでいるこの苦しみに満ちた小さな世界、現実の世界である。無限の空間、すなわち大宇宙から見れば、小さな太陽系のなかの、そのなかの一つの惑星にすぎない地球などは小さいものにすぎない。この小さな地球上の人間の住むこの娑婆世界において、仏はまず説法教化したのであ」りますと。

 中村さんも法華経の魅力を次のように述べています。「『法華経』が全体として日本人にひじょうにぴったりしたのは、娑婆がそのまま浄土になりうるという思想、つまり『常在霊鷲山』の思想のためです。われわれが生きているこの現世のなかに、理想の霊鷲山釈尊が常にいる霊鷲山が実現されるのだという考え方、これは日本人にぴんときたのだろうと思われます」と。

 宮沢さんもこの現世に仏国土を建設するという法華経の思想に共鳴したのではないでしょうか。そして宮沢さんの本願であった苦しむ一切の衆生を救うという道を切り開く方向性をえたのではないかと思います。すなわち、「この現世に仏国土を建設する」という方向性です。

 だとすると、次の2つの点が考察されなければなりません。その第一は、「この世」の現状をどのように認識・把握するのかという点です。第二の点は、「仏国土建設」のために自分は具体的に何をどうするかを決定することです。

 さらに、前者に関して言えば、「この世」にすでに「仏国土」は存在していると見るかどうかという問題です。なぜならば、法華経は、「三千大千世界」は「無限の過去から成仏している仏が」「説法教化」してきており、「娑婆がそのまま浄土になりうる」ことを示していたからです。道元さんはその仏法の真理を修行によって認識・把握することを出家者の役割としていました。

 『宮沢賢治法華経 日蓮親鸞の狭間で』の著者である松岡幹夫さんも次のように論じています。「日蓮法華経信仰」では、「苦悩の現実世界をそのまま寂光土とみる『娑婆即寂光』を説く経典なのである」のですと。

 しかし、宮沢さんは、少なくとも宮沢さんが生きていた時代の「この世」の世界即「仏国土」の世界と見ることはできなかったのではないかと思います。「この世」は、さまざまな(階級闘争的争いごとを含む)争いごとと仏教で言う「三毒」が充満している修羅世界となっており「変革」されなければならないと、宮沢さんは考えていたのではないでしょうか。

 考察されなければならない後者の点に関しては、法華経の「五百弟子授記品――生得の仏性を開く――」の中の「富楼那」さんに関する叙述が参考になるように思えます。その叙述とは、鎌田さんの解説によれば次のようなものです。

 「富楼那(ふるな)は過去、現在、未来の説法人のなかにおいても、説法の第一人者であった。富楼那は精進(しようじん)努力の人でもあった。そのために菩薩(ぼさつ)としての行いがすっかり身につくようになり、この世界において仏になることを仏に約束された。富楼那は法明如来(ほうみようによらい)という仏に」なったのです。

 また「富楼那は不惜身命(ふじやくしんみよう)の決意を説法に託し」ていました。「法を説くには、人を救うことであるという堅固な意志がなければ、伝道布教もできない」からだといいます。

 さらに、「当時の人々は富楼那は声聞(しようもん)だと思っていた。富楼那もまた方便(ほうべん)をもって人々を教化(きようけ)していた。『私も皆さんと同じようにまだ未熟の者です』と言いながら、ともに仏になる道を模索していた」のです。

 では、そうした富楼那さんの人を救うための仏法の布教伝道活動と仏国土建設とはどのように関係しているのでしょうか。さらに鎌田さんの解説を参照していきましょう。「法明如来(ほうみようによらい)となった富楼那(ふるな)は、無限に広い世界を、すべて仏国土にしようと教えを弘めていった。正しい仏の教えを聞けば、人の心は仏心となる。仏心となればお互いに慈しむようになる。すると、この人たちの住む世界は仏国土となる」のです。

 そして、一度「仏国土」が生まれると、「清浄な仏国土に生きる人は、大神通(だいじんつう)をえて体から光明を発し、飛行自在(ひぎようじざい)となる。……その人の人格が完成し、仏心をそなえることができるようになると、自然にその人の徳の感化力が周囲の人々に及んでゆく。これが光明を発するということです。

 『飛行自在』ということは、実際に空中を飛び回ることではなく、どんな場所、どんな境遇にあっても、自由自在に生きることができることである」のです。

 苦しむ一切の衆生を救いたいという本願をたてた宮沢さんは、法華経を学ぶ中で自分はこの「法明如来」となった「富楼那」と自分の将来を重ね合わせたのではないかと考えます。その導きの師は、もちろん仏(「釈尊」)さん自身です。後に日蓮さんが師となって行きます。さらに言えば、宮沢さんは、法華経を読んで身を震わすほど感動したとき、はじめは漠然とした状況だったかもしれませんが、法華経という絶対真理を説く仏さまを師として「仏法の布教伝道師」となることをめざして生きていこうと決心したのではないでしょうか。

 でもそのときは、まだ何をどのようにすれば「仏法の布教伝道師」になれるのか具体的な実践方法はハッキリしていなかったのではないかと推測されるのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン