シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

法華経が示す人を救う道とは(1)

 「あの世」における極楽浄土という死後の世界での救済を説く浄土教の示す人を救う道は、私たちが生きている「この世」での人を救う道を求めている宮沢さんが選ぶ道ではなかったと言えます。では、法華経はどのような人を救う道を示してくれるのでしょうか。

 法華経の行者を自認し、使命として生きた日蓮さんの信仰の特徴から確認しておきたいと思います。戸頃さんはそれを次のように紹介していました。

 「日蓮は、この世の苦しみを親鸞のように、『地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし』といってあきらめなかった。彼からみれば、地獄は『法華経』を捨てる念仏者のためにあの世に準備されていても、この世が地獄だなどということはない。『法華経』は、久遠(くおん)の仏が私たち人間のすむこの娑婆世界に住んでいる、と説いている。それなのに、仏のすむこの世界が、どうして地獄でありうるだろうか。『法華経』を修行する人びとが住むところは、どこでもみな浄土である」と考えていたのですと。

 さらに、「日蓮には、旧仏教的な現世利益思想が強い。祈祷で雨を降らせたり、国難を退治したり、病気を治すことができると日蓮は信じていた。しかしそれは、真言僧のように護摩(ごま)などを焚いて、攘災招福を祈ったのではない。ひたむきな信心の功徳果報なのである。『法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず』(『唱法華題目録』)ともいっているところをみれば、現世利益の請負師になるのは日蓮の本意ではない。そういう個人的な現世利益から、『国家が安全であるか否かは、政道がまっすぐであるか否かによる』(『北条時宗に与うる書』)と、政治への働きかけをとおして、現世の社会生活をよりよくしようとする方向へ向き直っていったのが日蓮の現世利益思想の特徴なので」あったのですと。

 少々長い参照となりましたが、宮沢さんの行動理解のため大いに有益かと考え、あえて長い引用をさせていただきました。法華経自身は人を救う道をどのように示していたのだろうか、さらに探っておきたいと思います。

 『現代語訳大仏教典・法華経』の著者中村元さんの解説によれば、法華経の中の「如来寿量品」において、私たちが住む世界は数えきれない数の世界から成り立っていることが説かれていると言います。すなわち「三千大千世界」論がそれです。

 「われわれが住んでいる世界を千集めると小千世界です。それを千倍すると中千世界になります。それをさらに千倍すると大千世界になります。その大千世界の上に『三千』(千の三乗)がついて『三千大千世界』といいます」。そして『法華経を読む』の著者である鎌田さんによれば、この「三千大千世界」は、「下は無間地獄(むげんじごく)から上は有頂天(うちようてん)の天上界まで」仏性の花の開き度の違う世界から成っているというのです。

 その中で、私たちが住み生きている世界は「娑婆」世界なのだそうです。中村さんによれば、「『娑婆』というのは、サハーというサンスクリット語の音写です。サハーは『耐え忍ぶ所』という意味に解釈されています。そして、この世の中はとにかく思うにまかせませんから、耐え忍ぶことが必要だというわけで、われわれが現実に生きている世界をサハーというのです」。

 ここで少し横道にそれることになりますが、この法華経の「三千千大世界」論は現代の世界社会理解にとってとても興味深い見方を提供してくれていると思います。とくに私たちが属している世界は、数えきれなくらいの無数の小世界から成っているということだけでなく、それぞれの小世界は、仏性の花の開花度で「無間地獄」から「有頂天」までの間のグラデーション世界となっているという考えに興味が惹かれます。

 人間世界も同じように見ることができるのではないでしょうか。私たちの住んでいる人間世界は、法華経的視点から見ると「娑婆」世界ということで括られるのかもしれませんが、その世界はある一つの色によって表現できるような均質な単色世界ではないと言えます。例えば、政治、経済、そして文化などの視点から見ただけでも、非常に多様性に富む無数の小世界から構成されていると言えるのではないかと思います。

 また経済のグローバル化にともなう経済格差の深化化という視点によっても違ったグラデーションを描くことが可能化もしれません。社会学の場合は、人間の社会性という花の開花度の違という視点によって、「地域コミュニティ」をベースとする無数の小社会世界からなる現代社会論を論じることが可能なように思えます。人々の幸福度の違いという視点からはどのような世界論が可能となるのでしょうか。興味は尽きません。

 唐突ですが、宮沢さんの「イーハトーヴ」論は、仏性という視点から見た宮沢さんがめざそうとした岩手県社会の生活世界、すなわち仏国土論だったのではないかと思うのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン