シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

若き宮沢賢治さんの悩み

 阿弥陀仏とともに歩み苦しむ「一切の衆生」を救うという願いはどうしたら実現することができるのだろうか。そうした課題を解決する糸口を、宮沢さんは法華経との出会いの中で見出していきます。宮沢さんの法華経との最初の出会いは、やはり中学時代でした。1912年8月の「北山願山寺の盛岡仏教夏期講習会で島地大等の法話を聞」いたときがその最初の出会いだったようです。

 その後宮沢さんは、島地さんの夏期講習会に何度か参加しつづけていました。理崎さんはそのことを次のように記述しています。「大等は願教寺で、毎年8月の早朝に『盛岡仏教夏期講習会』を開いていた。賢治は舎監排斥運動で退寮させられた後、願教寺近くの曹洞宗・静養院に下宿、翌月は近くの真宗・徳玄寺に移った。講習会の参加者は日々三、四百名というから、賢治も何度も聴いたであろう」と。

 さらに、1914年9月には、宮沢さんは、島地さん編の『漢和対照 妙法蓮華経』を呼んで大きな感銘を受けています。理崎さんの著書によれば、「その感動の様子は、

⃝只(ただ)驚喜して身顫(ふる)ひけり(草野心平

⃝一読してみて『何故』とか『どうして』とかいふ理屈などは一つも考へられず、ただ身内がゾーッとする位の感慨が起こり、それこそ慄へながら憑かれたように読んでいきました。(佐藤隆房)

⃝その中の『如来寿量品(じゅりょうほん)』を読んだとき特に感動して驚喜して身体がふるえて止まらなかったと言う。後年、この感激をノートに『太陽昇る』とも書いている。(宮沢清六)」と言われているというのです。

 そうして宮沢さんは法華経の教えを学び実践することにのめり込んでいくことになるのです。宮沢さんはなぜ、そしてどのようなところにそれほどまで感動したのでしょうか。ここではその考察に進まず、まず宮沢さんが法華経にのめり込んでいった時期が、宮沢さん自身が自分の人生にとって大きな苦悩と精神的な危機に直面していた時期に重なっていたことに注目してみたいと思います。宮沢さんははたしてどのような苦悩に陥っていたのでしょうか。

 宮沢さんが抱える苦悩の中心的な問題は、信仰する宗教と従事する職業をめぐっての問題ではなかったかと思います。『明日への銀河鉄道』の著者である三上満さんは、宮沢さんにとっては、高等農林学校在学中、友人であった保阪「嘉内の放校から、(高等農林学校卒業後)教師就職までのほぼ四年間波乱と苦悩」の時期であったと論じています。この四年間に、父親との職業と信仰する宗教をめぐる対立、そして将来を誓い合った友との非常に大きな悲痛と後悔の残る別れが宮沢さんを襲ったのです。

 ここでは父親との対立から生まれた職業に関する苦悩に関してだけ取り上げることにしたいと思います。宮沢さん23歳の1919年から1920年までの間の友人保阪嘉内さんへの手紙を追ってその苦悩とはどのようなものであったかを見ておきたいと思います。

 「私の父はちかごろ毎日もうします。『きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。』」(1919年8月20日前後)というようにです。

 「私はいまや無職、無宿、のならずもの、たとへおやぢを温泉へ出し私は店を守るとしても、岩手県平民の籍があるとしても私は実はならずもの、ごろつき、さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯、弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長 です。……私は著しく鈍くなり、物を言えば間違いだらけ、あたまの中にはボール紙の屑、……地獄ももう遠くありません」(1919年秋、日付不詳)。

 「私は殆んど狂人にもなりそうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合せます。人間の世界の修羅の成仏。……

 まだ、まだ、まだこんなことではだめだ。

 専門はくすぐったい。学者はおかしい。

 実業家とは何のことだ。まだまだまだ」(1920年6月頃)なのですと。

 こうした当時の宮沢さんの精神状況を三上さんは次のように論述しています。

 「あかのついた子どもの着物まで質に入っている質屋の店で、しかも父から邪道と言われ、ゆくあても見えず、賢治はもうボロボロである」のですと。

 ここまで見てきた宮沢さんの苦悩は、今どきの言葉で表現すれば、ニート状態に陥っていることへの苦悩であったと言えるのではないでしょうか。家業を継ぐことを拒否し、どのように経済的自立を図るかの試行錯誤の道も認められず、宮沢さんは否応なしに高等遊民化せざるをえなかったのです。しかもそうした状況に、父親だけでなく、宮沢さん自身、大いなる罪の意識を感じています。

 かといって、他方では社会的経験の未熟さと健康問題もあり、思い切って親元から巣立ちをする勇気ももてない自分に、恐らく忸怩たる気持ちで打ちのめされてしまっていたのではないでしょうか。さらに高等教育を受け、仕事にも就かず、経済的にも自立せず、他者の目から見れば遊んでいるようにしか見えない宮沢さんを見る世間の視線は、経済状況が現在とは比べようもないほど厳しかった時代と東北地方社会においては、冷たいものであった思われるのです。

 そうした中での宮沢さんの苦悩をみていると、戦前日本社会はすでに大いなる自己責任社会だったのだなと強く感じます。自己責任という社会規範が宮沢さん親子ともども緊縛し、親子対立を生み出し、精神的に追い込こんでいたことに悲しい気持ちになります。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン