シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

阿弥陀仏になろうとした宮沢賢治さん

 私たちは日々の生活の中で、それを意識することがないにしても、人それぞれの世界観に従って生きています。世界観とは、私たちの内面的な態度、または心的態度のことです。それは、自分が生きている環境世界をどのように認識し、どのように関わっていくのかを規定する働きをしています。時代・自然・社会・人間観にもとづく人生上の信念体系、または処世訓と言ってもよいかもしれません。そして、世界観は、同じ時代と社会を生きている人たちに共通する側面とそれぞれの個人によって異なっている側面を有しています。

 宮沢さんの場合は、そうした世界観形成過程の土台は、生まれたときからことあるごとに母から言われつづけた「教え」によって形づくられたとされてきました。その教えとは、「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」というものでした。宮沢さんは仏教の中の浄土真宗への信仰があつい家族的環境の中で育ってきていたのです。

 先にも参照した『宮沢賢治殺人事件』の著者である吉田さんは、その母の教えを、「賢治を殺した子守唄」と評しています。そして、次のように論じているのです。

 「『ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス』という商人倫理の子守唄を聞かされて育った男が終(つい)には『地上現実の霊国』の幻のような宗教に到達した。そうした『近代魔境』の迷路……だが、その子守唄に含まれた過剰な『利他』主義と禁欲主義が結局は賢治を生き急がせ死に急がせしたとするなら、ひとはゆめゆめ子供に四つの時から『白骨の御文章』を暗誦させるようにマインドコントロールをやってはならないの」ですと。

 宮沢さんと宗教の関係とは本当に吉田さんが論じたようなものだったのかどうか。改めて辿ってみることもあながち無駄なことではないように思われます。

 理崎啓さんは、自著である『塔建つるもの――宮沢賢治の信仰』の中で、宮沢さんの生き方と宗教の関係を探究しています。理崎さんによれば、宮沢さんが自分の生き方との関係で自覚的・主体的に仏教を意識するようになるのは、中学校時代だったと言います。すなわち、

 「賢治は中学四年の修学旅行時『小生は淋しさに堪(た)へ兼(か)ね申し候。無意識に小生の口に称名(しょうみょう)起り申し候……小生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候』と記している。さらに、八分まではこれを会得(えとく)した、念仏を唱えていると仏が守ってくれているので岩手山に一人で登ってもこわくないのだ、とも述懐している」のですと。宮沢さんにとって、仏教との意識的・自覚的・主体的出会いの契機とは、耐えがたいほどの孤独感だったのです。

 ここでの主題ではありませんが、宮沢さんの耐えがたいほどの孤独感とはどのようなものかということを明らかにすることも大切なテーマではないかと感じます。残念ながら、ここまでの時点ではそのことを示してくれる文献に出会っていません。今後に期待したいと思います。

 では宮沢さんが自己の生きる道にしようとした「歎異抄の第一頁」とはどのようなものなのでしょうか。それは、阿弥陀仏とはどのような存在であるかを説いているものです。そこでどのようなことが説かれているかを、暁烏敏さんの『歎異抄講話』によって確認しておきたいと思います。

 暁烏さんは、宮沢さんが生きていた時代、『歎異抄』の紹介のために内外各地の講演旅行を務めており、晩年東本願寺宗務総長であった人です。宮沢さんの父親が心酔しており、暁烏さんを呼んで講習会を開催したりしていました。そのときに、宮沢さんは、暁烏さんのお世話係をしています。

 その暁烏さんが説くところによれば、阿弥陀仏とは、「三世にわたり十方界に満ちて私どものために心を砕き身を労しておらるる慈悲の如来……である。すなわち弥陀とは私どもの真実の親である、師である。しかしてこの如来にはどうかして一切の衆生を助けたい、一切の衆生の精神に安慰を得させたいという願望がある」のですと。

 さらに説きます。「私どもの慈悲の御親たる弥陀はいろいろ工夫をして全宇宙の上に顕われて、私どもを恵みつつ指導しつつ、われにたよれわれにたよれと、招きつつおわす」のです。

 では、「一切の衆生」を助けるため全宇宙に顕われる力をもった阿弥陀仏がいるのに、私たちが生きる中で常に直面する苦痛・苦悩はなくなるどころか、ますます増大していくというようなことが起こるのでしょうか。こうした疑問に暁烏さんは答えます、

 「私どもはいたずらに自分の力や自分の知識を頼みにして、この御親を信ぜず、御親を思わず、御親にまかしません。それであるから私どもの胸には煩悶苦痛が絶えません、かくして私どもは永久大安慰が得られません、救われ」ないのです。

 「宗教のもっとも肝要なところは、この信ずるというところにある」のですが、人はこの「信ずる」ということが容易にはできないのですと。さらに、暁烏さんは、トルストイさんの「我は彼(キリスト)を理解せず、されど同時に、我は彼を離れて苦しみ、彼とともにありて苦なし」[(キリスト)は引用者による挿入。]という言説を例にあげて、次のように説きます。「私どもは彼すなわち慈悲の如来を信ぜず、慈悲の如来のお心を離るるときには苦悶に陥らねばならぬのであります」と。

 以上の暁烏さんの解説を参照して、宮沢さんが「歎異抄の第一頁」からどのような自己の生きる道を得たのかを推測しておきたいと思います。おそらく宮沢さんは、大慈悲の如来である阿弥陀仏の苦しむ「一切の衆生」を救うという「願望」に共鳴したのではないでしょうか。自分も阿弥陀仏とともに、苦しむ「一切の衆生」を救う道を歩んでいきたいと希望したのではないかと推測します。いやさらに進んで宮沢さんは(可能であれば)阿弥陀仏になりたいと心の奥底では願ったのではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、宮沢さんは、決して阿弥陀仏にすがり、自分は助けられたい、救われたいと願ったのではないと思います。敢えて言えば、阿弥陀仏のようになりたいと願ったのではないでしょうか。しかし、そうだとすると、一つの問題が生じることになります。それは、宮沢さんは、日々生きる中で苦しむ一「衆生」の一人にすぎないという問題です。

 宮沢さん自身は、決して、阿弥陀仏のように「一切の衆生」を救うために「全宇宙に顕われる」ことができるような神的力をもっているわけではないのです。むしろ自分自身が「受苦」する一衆生にすぎないのです。そうした存在の宮沢さんが、どうしたら阿弥陀仏のように「一切の衆生」を救うというようなことができるようになるのでしょうか。

 『歎異抄』はその問いへの答えをもっていないと宮沢さんは感じたのではないかと考えます。「八分まではこれを会得した」とはそのことを意味しているように思えます。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン