シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人間皆これ仏?

 苦しむ「一切の衆生」を救うという阿弥陀仏と同じ本願をもった宮沢さんが感動した法華経の人間観とはどのようなものなのでしょうか。すべての人間には「仏性」、すなわち仏になることのできる可能性があるというものではないかと思います。『法華経を読む』の著者・鎌田茂雄さんは法華経の「授記品」の解説でそのことを次のように解説しています。

 「われわれの心の中には、仏性(ぶつしよう)、すなわち仏に成りうる可能性が秘められている。ただ宿世(すくせ)の因縁がなかったために、その仏性が花開くことがなかった。しかし今や『授記品(じゆきほん)』の教えによって、われわれもまた未来世(みらいせ)において、この仏性を花開かせて、仏に成ることができることを知った」のですと。

 しかも、「この仏性を花開かせて、仏に成る」ための修行法のひとつとして、人に救いをもたらすという方法が存在するというのです。その方法とは仏教で菩薩道と呼ばれているものです。その菩薩道について、同じく鎌田さんは、『観音さま』の著書の中でつぎのように解説しています。少々長い引用となるのですが宮沢さんの生き方を理解するために重要と思われますので全文引用しておきたいと思います。

 「菩薩というのは、自利だけでなく、自利と利他の二つの面で修行する人である。自利だけで修行する人たちを小乗と呼ぶのに対して、自利利他の二つの面で修行する人たちを大乗と呼んでいる。自利だけを願う人は、生死の苦しみから自分だけ解脱(げだつ)を得ればよいのであるが、自利利他を願う人は自己の解脱とともに人を助ける智恵を得なければならない。前者は現実生活を捨てて悟りを開けばよいのであるが、後者は現実生活の真っただ中で人々を救い、自らも悟りを開かなければならない」のですと。

 まさしく宮沢さんは、「現実生活の真っただ中で人々を救」うという道を求めていたのではないでしょうか。しかし同時に宮沢さんは、それまでの出家僧のようには、自分が悟りを開き、仏となるということに関しては関心をもっていなかったように思えます。それよりも宮沢さんは、仏の意思が行き渡っているという宇宙の真理を探究し、明らかにしたいと願っていたように思えます。

 この点に関してだけ言えば、その宮沢さんの願いは道元さんの願いと共通しているのではないでしょうか。道元さんは禅宗のひとつである曹洞宗の開祖です。その道元さんの考えを鎌田茂雄さん著の『正法眼蔵随聞記講話』に拠って参照しておきたいと思います。

 道元さんによれば、「天とか、仏とか、道とか、性とか、明徳とか、至誠とか、真如とかいうが、それらのものは、ただ一つの天地の生命を述べているにすぎない。まさしく『書かざる経』を述べている」のです。

 それは、「無始以来、永遠に変わることのない法のことをいう。無限の時間空間にわたって変わることのない宇宙の大道を『経』という。森羅万象(しんらばんしょう)、春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)、草木虫魚(そうもくちゅうぎょ)、すべて経といってよい。香りも音もなく、動きゆく天地そのものが経である。ただ文字を書いたのが経ではない。釈迦の説法を書きつらねたのが経ではない」のです。

 「経典はたんにサンスクリットや漢字で書かれているものだけをいうのではない。……天上の文字、畜生道(ちくしょうどう)の文字、修羅道(しゅらどう)の文字、万木百草の文字で書かれておればよい。人間の文字で書かれる必要はまったくない。犬はワンワン、猫はニャーニャーいうのが、犬の経巻であり、猫の経巻なのである。桜の経巻もあるし、紅葉の経巻もある。この生きとし生ける世界にあらゆるものが、天地の運行とともに生きていること、それが経巻でなければならぬ。山は山の経、水は水の経、鳥は鳥の経、草は草の経なのであって、それ以外に永遠不滅なる経はないの」ですと。ここで横道にそれることになりますが、宮沢さんの文学作品とは、ここにある「永遠不滅なる経」を極めようとするものではなかったのでしょうか。

 何とユニークな仏法論なのでしょうか。道元さんの仏法論に強いて名前をつけるとするならば宇宙・自然経と呼べるように思えます。そしてその仏法論は宮沢さんのそれでもあったのではなかったかと推測しています。宮沢さんが遺した詩や童話などの文学作品とは、実は宮沢さんの「心象」というレンズによって映し出され、宮沢さんの願いや希望も込められて文字化された「宇宙・自然」の経典だったように思えます。

 その考察は今後に残しておきたいと思います。ここでは道元さんの仏論に戻ることにします。仏論に関しても道元さんのそれは本当にユニークだと思います。宇宙における存在物すべてが仏だというのです。一般的に、「禅宗では仏とは何かといえば、自心こそ仏であるということになる。禅宗でよく使用する言葉に『即人是仏(そくじんぜぶつ)』というのがあるが、自心が仏であることをいう」のだそうです。

 月庵さんはそのことを次のように説明していたそうです。「われわれ凡人が考えると、仏というのは顔形がうるわしく、飛行自在のような超能力をもった人と考えられるが、そんなものは真の仏ではないと確信する。それは、われわれ凡夫に信仰心を起こさせ、真実の仏道に入らせるための方便の仏にすぎない……。真の仏とは有相(うそう)、すなわち形あるものではなく、無相(むそう)、すなわち形なきもの」なのですと。

 鎌田さんによれば、「月庵のこの仏の把握(はあく)よりもさらに徹底していたのが道元の仏の把握であった。……道元は『仏とは石ころや瓦だ』と説いたのであった」というのです。

 宮沢さんがどこまで道元さんの経典論や仏論を学び知っていたかはわかりませんが、宮沢さんの「感動」とは、自分を含めて自分が生きている世界こそ仏の世界であり、社会的には名もない一「衆生」であっても、仏のように苦しむ「一切の衆生」を救うことができるのだというところにあったように思うのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン