シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

現代社会の家族と夫婦関係を考える

 社会学者にとって、現在、心が痛むことは、いたましい家族問題が多数噴出していることです。現在の市場経済社会の理不尽さが、なによりも私たちの社会の基礎単位社会である家族に、大きな否定的影響を及ぼしているのです。

 家族は、本来、親密な思いやりの心情によって結ばれている人間関係を基礎としている社会です。そのため、家族の人間関係とは、ときには直接協力・協働して、お互いの生活・社会活動を励まし合い・応援し合い・助け合うことで支え合うことが最も期待される関係性なのです。

 しかし、現代社会においては、そうした関係性を形成することが非常に難しくなっているのです。財政学者の池上惇さんは、現代社会における家族のあり様を、彼の著書である『地域づくりの教育論』の中で次のように描いていました。

 「今日、日本の社会におきましては、自分の言いたいことを言い、人の言うことがきちんと聞けて、自分のつくったものを人にひろめてゆくという習慣、つまり、社会のなかで自分を生かす力量をもつという習慣が、非常に乏しい」のではないでしょうか。というのも、「現実の私どもの生活は、そういう自分の言うことを表現し、人の言うことを聞くということには、あまりにも遠い生活をしておりまして、これはいうまでもなく、食うために働くという要素が非常に強いために、……ほとんどの勤労家族は、いわば食うのに精一杯、そのために追われて、スレちがいの生活をやっている。家族そのものとしてまとまって生活をささえあうというようになっていない」のですと。

 現代社会では、池上さんが言う、「家族そのものとしてまとまって生活をささえあう」家族を形成することが非常にむずかしくなっているのではないでしょうか。ではどうしたらそのような家族を形成することができるのでしょうか。そのような家族を形成するための柱は夫婦関係にあると私は考えます。核家族となっている現代の家族において、お互いが支え合う夫婦関係を形成することなしに、「家族そのものとしてまとまって生活を支え合う」家族を形成することは不可能でしょう。

 日本社会における昔から現在に至るまで、理想の夫婦関係を表現するキーワードは、「内助の功」なのではなかったかと思います。その意味するものは、「家庭において、夫の外部での働きを支える功績」です。またそれは、家父長的な家族制度の下における夫婦像とも言われてきました。

 例をあげれば、戦国時代の山之内一豊とその妻との関係こそ、日本における理想的夫婦像になってきたのではないでしょうか。そして、その社会的意識は現在なお続いているように思います。山之内一豊とその妻千代との夫婦の物語は、NHK大河ドラマにもなったくらいです。実際の家族の社会的変化と家族に関する社会意識の変化とのギャップの大きさを感じます。

 現代社会では、家族の形も、家族の経済生活を実現する形も、そしてそれらの変化にともなう家族間での社会的役割の在り方も大きく変化してしまっているのです。そのため、かつての家父長的家族制度の下におけるような家族や夫婦関係に関する社会的意識は、現代では、夫婦や親子間に大きな摩擦や軋轢・亀裂を生みだすように作用し、「家族そのものとしてまとまって生活を支え合う」ことをむしろ困難にしている大きな社会的要因となっているように思います。それだけではなく、家族内における暴力的関係や悲劇的事件を引き起こす潜在的な要因ともなっているように思います。

 現代社会で「家族そのものとしてまとまって生活を支え合う」家族を形成するためには、夫婦関係だけに限って言えば、「内助の功」は夫と妻との対等的で双方向的な関係でなければならなくなっていると言えるでしょう。さらに、夫と妻との対等的で双方向的な「内助の功」の関係性を社会的に築いていくには、個人の思いや努力だけでは成し遂げられものではないと言えます。家族をめぐる経済・社会・生活文化・社会規範などの諸制度の変革が必須なのです。しかし、それらの変革が容易に進みそうにないというのが現状なのです。

 それは個人的な仮説なのですが、家族をめぐる上述のような現状の中で、「家族としてまとまって生活を支え合う」家族を個別の家族として形成しうる比較的大きな潜在可能性は自営業の家族にある、と私は感じています。そして大麻座商店街の江別港・麺こいやの橋本さんご夫婦はその潜在的可能性が現実化している姿を示してくれているのではないかと思ってきていたのです。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン