シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

虔十少年家族のお話

 社会学の目でみると、本間さんの論考における虔十少年と彼の家族との関係に関する考察には興味深いものがあります。本間さんは、ご自分の仕事柄から、虔十少年について次のような見方を提示されています。すなわち、それは、

 「みんなにバカバカと言われた虔十は今では後天的な『ダウン症候群』や『エドワード症候群』と言われた染色体異常の知的障がいの臨床症状のある少年であったのでしょう」という見方です。

 そして、本間さんはもしそうした場合、「当時、(今もですが)ダウン症(知恵おくれ)等の子供がいる家庭は家の奥座敷に隠してしまう」ものであることを指摘し、しかし、虔十少年家族の場合には、それらの社会的処遇とは全く違った関係性であったことを評価しています。

 すなわち、「虔十は家族と一緒に農作業」する生活をおくっていただけでなく、虔十少年の杉700本の植林の希望を家族のみんなで応援し、その希望の実現を支えていこうとするのです。

 そうした生活の風景を本間さんは以下のように表現して行きます。まず虔十少年が杉の苗をお願いする場面です。「お母さんに『お母(か)、おらさ杉苗700本、買ってけろ』のお願いをすると、父が『買ってやれ、虔十ぁ今まで何一つだって頼んごどぁ無いがったもの、買ってやれ。』と言いました」。

 植林した杉苗を兄の協力の下で育てていく場面は、「そこは杉が育ちにくい『粘土質の土地』でしたが、お兄さんの知恵と協力で、700本の杉苗を几帳面な虔十は実に正確な間隔で植えました」のですと。

 そして、植林した杉苗の土地が地域の人たちの憩いの場となるような公園林に育っていく半ばで虔十少年が急逝してしまったのちの場面に関しては、「その後家族が20年以上杉林を大切に手入れし続けて、杉は駅から3丁(330m位)の街中の小学校の運動場の隣にあってお天気の日には毎日子供たちの遊び場になっていました」と。

 ここまで参照してきた本間さんが描写している虔十少年とその家族の生活風景は、幸福家族の生活風景の典型と言っても過言ではありません。虔十少年は自分の夢をすべての家族のメンバーから受け入れられ、応援されています。そのため夢実現に立ちはだかってくるさまざまな困難を家族の支えと協力によって乗り越え、一歩一歩自分の夢実現の歩みを進めていけるという幸福を虔十少年はえています。

 家族のものたちは、自分の大切なメンバーが毎日生き生きと笑顔で社会的活動をしている姿を見るだけでなく、自分たちの応援がそうした活動を支えているということを実感することができる幸福をえています。

 しかも、家族の人たちは、志半ばで虔十少年が亡くなってしまったあと、その志を継承し、今度は自分たちが地域の人たちから喜ばれ、多くの人を幸せにする社会貢献活動の当事者になるという幸福をえています。

 宮沢さんは、こうした家族の姿を描きながら、この作品の中では、虔十少年とその家族の姿を「ほんとうの幸せ」とは明示的には表現はしていません。しかし、宮沢さんは家族とはそのようなものであったほしいという願いをもっていたのではないかと思います。

 しかも、宮沢さん自身の家族も、文字通り虔十少年家族と同じ性格をもっている家族であったことを実感し、感謝もしていたのではないでしょうか。そうした宮沢さんと家族の関係、とくに父との関係は、ときには甘やかしという批評が下されもするようです。

 岩波書店刊行の『日本近代文学大系36』は『高村光太郎宮澤賢治』ですが、その宮沢さんに関する解説で、伊藤信吉さんは、羅須地人協会設立時の父のとった行動を次のように評しています。

 「私的なことばを挿しはさむことになるけれども、私は賢治の両親が桜の台地へ移住することを認め、いかに粗末でも一棟の建物の建築費を支出し、収入のない生活を了解していたことを、世の常の親として寛大だったように思う」のですと。

 このように岩手県仏国土(極楽浄土)の国を建設するという自分の夢を、支えられ、応援されていることの実感と感謝が宮沢さんにもあったと考えたいと思います。しかし、そうしたことで自分は「ほんとうに幸せ」であると明示的に口に出して表現することはありませんでした。なぜなら自分ごとではなく、すべての人の「ほんとうの幸せ」を実現するというのが宮沢さんの希求していたものだったからです。

 自分が享受している幸せを、それが幸福なことであるといちいち明示的に示すことの必要のない幸せこそ、「ほんとうの幸せ」というものではないかと思います。宮沢さんの「虔十公園林」という作品もそうした「ほんとうの幸せ」づくりの物語であると言えるのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン