シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

姫島村のワークシェアリングの社会的性格を考える

 姫島村の政治構造との関りで、ワークシェアリング政策の社会的性格をどのように考えたらよいのでしょうか。イギリスをモデルとする「福祉市民社会」型の地域コミュニティ再生を提唱している加藤春恵子さんは、これからの地域づくりは「個人から出発して既存の大組織に頼らず社会を変える」ものでなければならないと主張しています。

 加藤さんは言います。「福祉市民社会」形成にとって重要なことは、「『強者』である行政が『弱者』である市民(と)……ときには立場や意見の相違からくる緊張関係をはらんだ相互的な対話を行うという市民社会のコミュニケーションの姿」です。「ほんわかとした一方的な古めかしい温情主義の支配する、もの言わぬ社会」となってはなりません。「『福祉市民社会』は、このような『古いコミュニティ』とは異なる『新しいコミュニティ』である。『強者』の温情主義に丸め込まれないで、『弱者』が市民としての権利を主張でき、情報伝達と対話交流が十分行われる『新しいコミュニティ』としての地域社会」でなければならないのですと。

 そうした加藤さんの視点から見たときには、姫島村ワークシェアリング政策は行政初の施策で家父長的(強者による)温情主義という、まさに批判されるべき政策であるということになるのかもしれません。そういえば、社会学の分野でも、個人の主体性の形成にとって重要なことは、血縁や地縁というかつての古い前近代的な関係性から自由になり、個人として自立・自律することであるということが主張され目指されてきました。

事実戦後の市場経済の成熟によって私たち個々人は、血縁・地縁というかつての古い社会的関係性から自由となり解放されてきたのです。しかしそのことによって私たち一人ひとりははたして社会的に自立し、自律することができるようになってきたと言えるでしょうか。社会学の目で見ると、その過程とは人々がバラバラの個人として他者との関係性から切り離され、孤立し、無縁社会化してきたと捉えられるものだったのではないでしょうか。

 血縁・地縁という古い社会関係から自由になった都市市民こそが新しい社会を創造することができるという神話について、「地域自治体運動の新しい展開と課題」を論じた西堀喜久夫さんは、西堀さんも執筆者の一人である『共同と人間発達の地域づくり』という著作の中で次のように論じていました。

「都市の住民運動の発展条件に、農村や地域の諸関係から『自由』になった住民の存在をあげたが、その『自由』のうえに共同性をつくりあげてゆくことにならなければ、逆にバラバラになってしまい、企業の営利活動に支配されたり社会からドロップアウトしてしまう」のですと。

 同じく西堀さんはその論考で、都市における「中学校区」などの地縁組織の住民の人たちの活動にとってもつ可能性について、加茂利男さんの次のような体験を紹介していました。

「率直に言って筆者(加茂)は参加してみるまでは、こういう『連絡会』的組織というのは、タテ割組織のトップの方々のつながりであって校区レベルの草の根に総合的な主体形成をするには不向きな組織だと思っていたが、これは認識不足であった。住民運動がどんな形にせよタテ割りの枠をとり払って連帯できたとき、一気に地域を総合的にみる視点がつくられ」ることがわかったというのです。

 これらの議論から分かるように、ある施策の性格評価に関して言えば、行政がイニシアティブをとっている、古い地縁組織が関わっているということだけで否定的に見る必要はないのではないでしょうか。国家機構の中で最も人々の生活に近い市町村自治体がどのような性格の政策を採るのか、またその施策が住民のどのような共同性・協働性に支えられているものなのかということが大切であるように思えます。

 そうした視点に立つならば、ある施策がたとえ行政がイニシアティブをとったものであったとしても、その施策が住民の方々の暮らしと命を守り支えるものであり、そしてその施策が住民の方々の地域社会づくりに関わる自主的な活動を促すものであるならば、その施策は住民の人々の手による住民の人々のための地域づくりという性格があると評価してもよいように思われるのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン