シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがなりたかったものとは(2)

 中学卒業後の挫折生活の中、宮沢さんはどのような生活をしていたのでしょうか。『宮沢賢治 人と作品』の著者、岡田さんによれば、「古着屋の店番やら、宮沢家でしていた養蚕の桑の葉をつんだり、何やら物思いに沈んだ様子で近在の田園を歩きまわる」というものだったそうです。そうした様子を見て、宮沢さんが商人にむいていないことを父は知らされたのです。「父をはじめ家族たちは、改めて賢治の将来について考えざるをえなくなった」のです。

 文学者としての歩みという視点で見ると、「この時期を賢治の一つのエポックとして形づくったよう」です。岡田さんは言います。「内面にあふれんばかりの思いを貯えた賢治が、自己の一瞬一瞬の生命のまたたきを、思春期の生活の歌を石川啄木自然主義風な短歌の世界に没入していった」のですと。

 しかし、宮沢さんの短歌は、石川さんの「批判的リアリズム」という短歌の方向とは違って、「死や四次元世界で自我を充足させ」ようとするものだったようです。岡田さんによれば、宮沢さんのそうした短歌の方向とは、「大正時代特有の個人主義的な精神世界、感覚的世界へ深く傾斜していく」ものなのでした。

 どうやら宮沢さんは人生のかなり早い時期から死という問題を意識していたのだなと感じます。この点に関して見ると、曹洞宗の開祖道元は、死を意識して一日一日を大切にして生きることの重要性を説いたと言われています。『正法眼蔵 生死を味わう』の著者であり、ご自身が曹洞宗の僧侶であった内山興正さんは、死を意識して生きるという人生について次のように論じています。

 「いつかは必ず死ぬという有限性、それもいつ死ぬかわからぬという危機性――、この有限性と危機性を自らのうちに含みながら、それに耐えて精一杯に生きるのであればこそ、ほんとうの生命というものです。その精一杯に生きるところに、はじめてそれ自らの永遠の生命の姿があるのだと思います」。「自らの永遠をみつめるためには、まず自らの死をほんとうにみつめなければなりません」と。

 この内山さんの文章を読んだとき、それは宮沢さんの生き方のことを指摘しているのではないかと感じたのです。宮沢さんの人生の底流には、常に内山さんが言う「自分の死をみつめ」て生きるという生き方が流れていたのではないかと思います。

 内山さんは言います。「われわれが、もしほんとうに、みずみずしい、美しい、潤いのある生命を生きようとするのであれば、いつの場合でも、その生命は死をその裏側に持っている生でなければなりません。いつかは必ず死ななければならないというはかなさをもつ、自己の生命を生きるのでなければならない」のですと。なぜ宮沢賢治さんという人が人々から愛され続けているのか、その秘密の一つは、宮沢さんのたえず死を意識して人生をおくっていたというところにあるのかもしれません。

 しかし、現代社会では、日常生活の中で自分の死を意識して生活するということはないのでしょうか。とくに若い人たちにとっては、死とは他人事であり、「自分だけはいつまでも生きているつもり」で生きているのかもしれません。また、「『死』という言葉がでたたけでも『縁起が悪い』『不吉だ』『塩まけ』などといった感覚で人々は生きている」と言えるのではないかと思います。

 ただ感じることは、現実にはそう簡単には、「自分の死をみつめる」ことイコール「みずみすしい、美しい、潤いのある生命を生きる」ことにはならないのではないでしょうか。現在の新型コロナ禍で、重症化リスクを抱える人たちにとって死を意識せざるをえないことがあるかもしれませんが、それは大きな不安感やときには恐怖感の種となるばかりということになりかねません。また死期を悟ることが、ときと場合によっては、人を乱行に駆り立てることもあるのではないでしょうか。内山さんが言われている「ほんとうに」自分の死をみつめるとはどういうことなのか、まだスッキリとわかったと思えない自分がいます。

 宮沢さんも、自分の死を意識していたことで、生き生きと生きることができていたとは感じられません。むしろ、そのことで、あせりを感じ、苦悩を抱えていたように思えるのです。少なくとも、ここで取り上げた中学卒業後の時期には、宮沢さんは、自分が何になりたいのか発見できていない状況にあったのではないかと思います。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン