シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがなりたかったものとは(3)

 中学校卒業後自分の納得のいく進路を歩むことができず、悶々とした生活をおくっていた宮沢さんに、幸運が舞い込みます。それまで家業を継ぐことを迫っていた父が、盛岡高等農林学校への進学を許してくれたのです。「優しい母は賢治に味方を」してくれていたといいます。そのとき、「賢治の喜びは大きかった。絶望の淵をさまよっていた賢治に奇蹟が起こった」のです。

 そしてこのときの「奇蹟」が後の宮沢さんの独特の文学を生む心的土台を形づくったと、岡田さんは指摘しています。宮沢さんの「四次元世界への逃避が逃避でなくなった。四次元世界、言いかえれば夢の世界での実現が実質をもって現実の中で実現されたのである」。「こうして賢治は自己の心象に絶対の信頼をおき、自身の心象中に形作られる四次元世界での主張は、……常に願えば叶えられるという調和の様相をもつことになる。そしてますます個人的世界の完成へと賢治は向っていくのである」のですと。

 盛岡高等農林学校の生活は非常に充実したものだったようです。「賢治は卒業するまで特待生(学費免除)であり級長を続けるほどよく勉強もし、教師の受けもよく、賢治にとって盛岡高農は居心地(いごこち)のよい場所であったらしい」のです。趣味であった鉱物採取にも励み、「土、日曜はハンマーを携えて盛岡近郊の山野を跋渉(ばっしょう)し」ていたといいます。岡田さんは、この時期の宮沢さんの様子を、「盛岡中学卒業時のあのうらぶれた絶望的に暗い姿はまるでぬぐわれてしまったような感じがする」と評しています。

 しかし、高等農林学校卒業後には、再度自己の進路をめぐって苦悩せざるをえない日々が訪れることになっていくのです。では宮沢さん自身の希望はどのようなものだったのでしょうか。結論から言えば、経済的に独立し、法華経の流布に生涯を捧げたいというのが宮沢さんの希望だったのです。卒業間近の父親への手紙の中で、「先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくるのはしめ進みては人々にも教え又給し財を得て志那印度にもこの経を広め奉」りたいと訴えていました。

 そのために卒業後は、「暫く山中にても海辺にても乃至は市中にても小なる工場にても作り只専ら働きたく又勉強したくと存じ候孰れにせよ結局財を以てするにせよ身を以てするにせよ役に立ちて幾分の御恩を報じ」たいとも記しています。そしてその上で、「只今より独身にて勉強致し得る様又働き得る様御許し下され度」と父親へ自分の希望を認めてくれるよう許しを乞うていたのです。

 このように宮沢さんは、高等農林学校卒業までに、卒業後の自分の進路に関して、親からの経済的自立と法華経の世界的流布という人生目標を形成していたのです。しかし、この人生目標は、その後の人生で順風満帆に進むということはありませんでした。幾多の挫折と大きな壁にぶつかりつづけ、宮沢さんは大きな苦悩を抱えつづけていくことになります。

 それら二つの人生目標に沿った宮沢さんの人生の歩みを、今後順次考察していければと思います。ここでは、まずその考察の視点を定めるために、宮沢さんがそれらの人生目標を形成することになった隠れた動機および欲求についての仮説をたてておきたいと思います。

 宮沢さんは、自分が地方財閥の息子であるとか、「ハイマキ」の一員であるとかとういような色眼鏡でみられ、評価され、排他的な見方をされていることに対し心を痛め、嫌悪の念や怒り、そして寂しさを感じていたのではないでしょうか。そこで、宮沢さんはそうした属性から離れて、本当の自分を知ってほしい、認めてほしい、そして受け入れ愛してほしいと強く願っていたのではないかと考えます。

 社会一般の人と同じように見てほしい、扱ってほしいとも願っていたのではないかとも思います。人や社会に役立ち、貢献し、必要とされる人間になりたいと心の奥底で願っていたのではないでしょうか。社会学の中ではそうした欲求のことを社会的被承認欲求と呼びます。宮沢さんの社会的被承認欲求は人と比べて強かったと言えるのではないでしょうか。

 高等農林学校卒業後の徴兵検査をめぐる父親との対立というエピソードがこの仮説の信憑性を示しているのではないかと思います。父親は宮沢さんに高等農林学校の研究科への進学を進めていました。しかし、宮沢さんは、それは徴兵検査を回避するためであり、「『同機は安穏なる時を選ぶ為、研究はこの方便』(大正七年三月十日父宛書簡)と考えて」て徴兵検査を受けたのです。「しかし、五月の徴兵検査では、結局丙種合格ということで徴兵免除となった」のです。普通「徴兵免除」となれば喜びそうなものなのですが、宮沢さんはガッカリしてしまったと言います。

 この徴兵検査をめぐるエピソードは、宮沢さんがいかに特別扱いされることを嫌っていたかを示しているのではないでしょうか。もし社会から必要とされるのであれば、それが例え兵役であっても応じたいというのが宮沢さんの姿勢だったのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン