どんな職業に就き、仕事の中で何を成し遂げたいのかということを、社会学では職業アイデンティティと言います。この職業アイデンティティに関して言うと、宮沢さんのアイデンティティとはどのようなものであったのかということについては、実現化したものとしては、わからないのです。めざそうとしていたものがいくつか推測できるだけです。
「地方財閥」の家の長男として生まれた宮沢さんは、普通に考えれば何不自由ない人生がおくれたのかもしれません。しかし、宮沢さん本人からすれば、人生の早い時期から、自分の希望や夢が社会の高い壁に阻まれ、挫折と不本意な道を歩まなければならなかったようです。福田清人さんと岡田純也さんによる編著『宮沢賢治 人と作品』(実質の執筆者は岡田さんのようです)に依ってその軌跡を簡単に辿ってみたいと思います。
宮沢さんは1914年3月に盛岡中学校を卒業します。彼18才のときです。中学校卒業後は、進学を望んでいました。しかし、祖父や父の強烈な反対にあいます。宮沢家の長男として家業である質屋兼古着屋を継がなければならなかったのです。そもそも、祖父は中学校進学さえも反対でした。幸いにもそのときは父親が中学校進学を許してくれました。しかし、中学卒業後の進路に関しては、その父親からも家業を継ぐことを求められたのです。
宮沢さんは、中学時代に連歌形式の短歌を詠んでいました。岡田さんによれば、それは、「まるで日記を読むように賢治の生活を知らせ」る内容であり、「後の賢治の心象スケッチと呼ぶ詩や童話」を思わせるものだったといいます。中学卒業後、家業を継ぐため進学を反対されたときの短歌は次のようなものでした。
学校の
志望はすてん
木木のみどり
弱きまなこにしみるころかな
職業なきを
まことかなしく墓山の
麦の騒ぎを
じつと聞きゐたれ
進学の夢が叶わないことは宮沢さんにとって大きな心の痛手だったのでしょう。しかし、これらの短歌を詠んだときには、「志望はすてん」と自分の意思を貫こうという気持ちをもっていたようです。またこのとき、宮沢さんは、「年来気になっていた肥厚性鼻炎手術のため岩手病院に入院し」、さらに「手術後、運悪く発熱し、発疹チフスの疑いがあり」、「引き続き入院生活を続け」なければならなかったのです。そしてそのとき、「賢治は一人の優しい看護婦に恋する」のでした。
しかし、その初恋が実ることはありませんでした。父の知るところとなり、反対を受け、断念せざるをえなかったようです。まだ若すぎると反対されたのかもしれません。参照している本には、そのときのことを詠んだ短歌が紹介されています。
父母のゆるさぬゆゑ
きみわれと年も同じく
ともに尚はたちにみたず
われなほなすこと多く
きみが辺は八雲のかたに
わが父はわが病ごと
二たびのいたつきを得ぬ
火のごとくきみをおもへど
わが父にそむきかねたり
こうして宮沢さんは、初恋に断念と挫折の経験を重ねることとなったのです。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン