シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

虔十公園林のお話

 ここで横道にそれますが、この10月20日に、岩手大学地域社会教育推進室が主催している「いわて生涯学習士育成講座」の「地元学コース」で話をする機会をいただきました。このブログで宮沢賢治さんの生き方について綴ってきたことがキッカケとなってのことかと思います。

 その話のテーマは、「宮沢賢治と地域社会 岩手県仏国土(極楽浄土)のくにづくりを夢見る」です。宮沢さんが岩手県という地域社会に出会い、そこに先人たちの志を継承し極楽浄土の世界を創り出すために生涯をかけて悪戦苦闘した物語について話をさせていただきました。

 最後に、話に耳を傾けていただいた出席者の方々に「みなさんがご存じの岩手県における宮沢賢治的風景はありますか。よければ教えていただけないでしょうか」ということをお願いしたのです。

 それは、まだ短い期間にしかすぎませんが、これまで宮沢さんに関する先行の研究を求めてくる中で、宮沢さんに関しては在野で宮沢さんの生涯や作品に関心をもたれた多くのかたがたが、実に多面的ですぐれた研究成果をあげてこられていることに気づかされたからです。とくに岩手県という地域社会で生まれ育ち生活してこられた方々は、地域の生活文化に浸って生活する中で自然に身につけられた肌感覚をとぎすますことでしか感じとることができない事実に気づくことができるのではないかということを期待したのです。

 そうした方々に出会い、その話を聞かせていただくことも、フィールドワーカーの仕事なのかと思いました。もしかりにそうした機会に出会える僥倖が実現したらこのブログでぜひ紹介していければとも願った次第です。

 そうした願いが叶って、上述の講座における話が終わったあと、お一人の出席者の方から宮沢さんの作品「虔十公園林」に関する論考をいただけたのです。その方は、三愛学舎という障がい者支援学校で理事・評議員を勤めておられる本間邦彦さんです。そして本間さんの論考は、「宮澤賢治:[虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)]の現代的課題~環境(SGDs)と福祉の精神と価値ある生き方の提案~」です。

 さすが岩手県です。それは呼びかけてすぐのことだったことから、宮沢賢治さんに関心をもち研究している人が本当に沢山いるのだということを実感した次第です。本間さんは、この論考で、「『虔十公園林』は人権の尊重・世界福祉にまでを視野」にしている珠玉の作品」であることを紹介しようとしています。

 その趣旨を冒頭に次のように叙述しています。すなわち、「国連が提唱する『持続可能な開発目標―SDGs』~『すべての人に健康と福祉を』~と同様のテーマを~賢治は『虔十公園林』で大正から昭和時代に発展した資本主義の経済的な成長ばかりを重視する社会にあって、地球規模の自然環境を大切に、又、『一人一人のさいわいの為の祈り』福祉の精神と価値ある生き方」を描き出しており、この論考でそのことを紹介しようとするものですと。

 その本間さんの論考を読ましていただいたことで、あらためて「虔十公園林」という作品をどのように読んだらよいのかを考えさせられました。現代の世界的な潮流ともなっているSDGs理念にもとづく社会づくりと宮沢さんの「虔十公園林」の作品との関係に着目した本間さんの慧眼に感謝しなければという気持ちです。

 また、この論考に触れることができたことで、宮沢さんの「虔十公園林」は、宮沢さんが「ほんとうの幸せ」や、「雨ニモマケズ」の中の「サウイフモノニワタシハナリタイ」と願った木偶の坊の人物像をどのように考えていたのだろうかを考察する上で、極めて大切な作品であることをあらためて知ることができました。

 この作品における「ほんとうの幸せ」とは、「バカバカと言われた」虔十少年が植林した700本の杉林の社会的価値と関係するものです。それは、地域に清浄な空気と子どもたちの遊び場、そして人々の憩いの場を提供するものです。

 そのことを、この作品では、本間さんの表現によれば、虔十少年が植林した杉林のある地域出身の「アメリカ帰りの若い博士が、小学校の講演の後、杉林を見て『虔十公園林』と名付け、『誰が賢くて、誰が賢くないかわかりません。』そして、『何千人の人たちにほんとうのさいわいが何だかを教えるか数え切れません』と結んでい」るのです。

 すなわち、「虔十公園林」における「ほんとうの幸せ」とは、公園林のお陰で地域の人々が自然の恵みを享受することができるようになったことだったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

家族の大切さへの気づき

 病床の中のこれまでの自分の生き方を振り返る思索において、宮沢さんは人間の幸福にとって家族の大切さをあらためて感じるようになっていったのではないかと思います。それは、二つの道を通って実感していったように思われます。

 その第一の道は、東北砕石工場で働いている人たちおよびその人たちの家族の人たちとの交流だったのではないでしょうか。とくに、畠山八之助父娘さんとの出会いと交流の経験は宮沢さんにとって貴重な経験となったものと考えられます。

 宮沢さんは東北砕石工場のためにセールスマンとして働いていたとき使用していたとされている王冠印手帳の中で次のような詩作を行っています。それは、「あゝげに恥なく/生きんはいつぞ/妻なく家なく/たゞなるむくろ/生くべくなほかつ/この世はけはし」(『新修宮沢賢治全集第十五巻』筑摩書房)というものです。

 伊藤さんはこの詩は、「畠山八之助をモデルにうたっているのではないかととも受けとっている」との示唆をしています。なぜならば、畠山さんは、「はやくに妻を亡くし、娘と二人だけで小さな小屋を借りて住んでいた」方だったからです。

 この伊藤さんの示唆に刺激を受けてさらに論を進めてみると、同じく伊藤さんが紹介している畠山さんの娘自慢の話に興味を惹かれます。伊藤さんが紹介しているその自慢話とは、「アカ貧乏(赤貧のこと)なため、折角受かった女学校にも入れてやれず、可哀想な娘っしゃ(です)。でも俺にとっては金のべごっこ(牛)みたいに大事な一人娘でがんす」というものです。

 この自慢話に、宮沢さんは、「そんな境遇にも負けないで、素直に育っておられますね」と応じたと伊藤さんは紹介しています。そのとき、宮沢さんは自分と畠山さんの生きざまを比較したのではないでしょうか。

 妻がなく家もないことは両者に共通しています。しかし、畠山さんには娘さんがおり、畠山さんは男手一つで娘さんを宮沢さんの言葉を借りれば「素直に」育てています。誰か特定の個人を、個別具体的に大切に思い、その生活を支えるために働くことができている畠山さんの生きざまを宮沢さんは価値あるすばらしいものと認識したように思います。

 畠山さんのそうした生きざまと比べると、自分は誰か個別具体的な特定の個人を支えるために働いたという経験をもっていないことに気づいたのではないでしょうか。家族との関係でも、とくに経済的と身体的な事柄に関しては、常に世話を受ける関係でした。そんな自分のそれまでの生きざまを、宮沢さんは上述の詩の中で、「たゞなるむくろ」と表現しています。

 宮沢さんは、自分も畠山父娘さんたちに恥じない生き方をしたいと、せめて畠山父娘さんたちを含む東北砕石工場で働く人たちのために石灰肥料のセールスに頑張ろうとしているが、けわしいこの世の中で思うようにいかないという心境を書き留めたのでしょう。同時に、あらためて家族の大切さとそれが人を幸せにすることの意義を実感してもいたように思います。

 家族の大切さとそれが人を幸せにすることのあらためての認識に至るもう一つの道は、自分の病の原因を仏法の因果関係論、すなわち因果応報の視点で追及するというものでした。1932年6月22日日付の中舘式左衛門さん宛の手紙(下書)の中に次のような一文があります。それは、

 「小生の病悩は肉体的には遺伝になき労働をなしたることにもより候」、また「諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓を引きたる為との事尤もと存じ候」というものです。

 これらの文面によれば、宮沢さんの家族は宮沢さんの病気からの回復を願ってさまざまな試みをしており、その中に神託に頼るという方法も試みていることが分かります。しかし、宮沢さん自身は、それらを頭から無条件に信じているものではないこともこの手紙の下書きには示されています。

 上記の引用文につづいて、前者の引用文には、「候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候」という文言が、そして後者の引用文には、「然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候」という文言が記されています。

 また、そうした信託などを当時の新宗教群生の状況を踏まえて宮沢さん自身は警戒していることをも書き添えています。すなわち、「昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亘りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由」注意を要するのではないかととらえているのですと。それは、遠野物語語り部である佐々木喜善さんからのアドバイスであることも記されています。

 しかし、他方では、この時期にもとくに父母に尽くしてもらいながら自分が何事をもお返しできてこなかったことに忸怩たる気持ちでいたこともさまざまな言動から推察できるかと思います。同年同月のものと推測されている宛先不明の手紙の下書の中で、「からだが丈夫になって親どもの云ふ通りも一度何でも働けるなら、下らない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨てゝもいゝと」まで言い放っていました。

 『イーハトーブ温泉学』の著者である岡村民夫さんはここで論じている点に関して「雨ニモマケズ手帳」に着目しています。岡村さんによれば、その手帳は、「特異な闘病記」であり、それを見ると、「仏教徒賢治が結核の再発を偶然的災厄ではなく、あくまで精神的、霊的意義をもつ現象として受けとめている(受けとめようとしている)」ことが分かるというのです。

 さらに岡村さんは、「『雨ニモマケズ手帳』には、賢治の奥深いところに潜んでいる山岳信仰ないし修験者的メンタリティが心身の極限状況のなか、剝き出しのままぬっと顔を出している」ことも指摘しています。

 そして、その手帳のかの有名な雨ニモマケズという文章が書かれている8頁前の頁から今後どのように生活していったらよいかに関して次のように書きつけています。それは、

 「厳に/日課を定め/法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/(社会)農村を/最后の目標として/只猛進せよ」(『新修宮沢賢治全集第十五巻』)という文章です。

 この文章には、この時期いかに宮沢さんが自分を育み、支えてきてくれたものにたいして恩返しをすることを熱望していたかが示されていると言えるのではないでしょうか。そしてその熱望がかなっていくことこそが「ほんとうの幸せ」につながるとの思いももつようになっていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

ほんとうの幸せを求めて

 宮沢さんが仏国土の建設でめざしたものとは、「みんなの幸せ」を実現するというものであったと言われています。また、宮沢さんは、「ほんとうの幸福」と何かを探求しつづけていたとも言われています。では、宮沢さんは、「みんなの幸せ」を実現するための道や「ほんとうの幸福」とは何かについてどのようなものであるかについて発見することができたのでしょうか。

 結論から言えば、見つからなかった、分からなかったというのがこれまで言われてきたことではないかと思います。『明日への銀河鉄道―わが心の宮沢賢治』の著者である三上満さんもそう結論づけています。

 三上さんは、宮沢さんの「ほんとうの幸い」の探求は未完に終わったとして、次のように論じています。「『銀河鉄道の夜』は未完の作である。『ほんとうの幸い』に至る道の探求は苦闘の末挫折に終わった。しかしその苦闘があったからこそ、胸打つ名作となったので」すと。

 羅須地人協会における活動以降の宮沢さんの人生の特徴は、多くの部分闘病生活をつづけていたということではないでしょうか。それは、病床に臥せっていないで社会活動をつづけているときでも、常に体調の病化・悪化と闘いつづけなければならなかったものと思います。

 そうした状態のなかだからこそ、宮沢さんが人間の幸福とは何かについて新たに感じ取っていったことが、多々あったのではないかと推測されます。その感じ取っていったいくつかについて、この時期の宮沢さんの手紙から拾ってみようと思います。

 まず直接幸福ということばが使われている一文を参照してみましょう。それは、1930年3月30日付の菊池信一さん宛の手紙の一文です。それは、

 「私の幸福を祈って下すってありがたう、が、人はまはりへの義理さへきちんと立つなら一番幸福です。私は今まで少し行き過ぎてゐたと思ひます」というものです。

 ところでこの一文にある「私は今まで少し行き過ぎてゐた」とはどのようなことを意味するものなのでしょうか。それは、おそらく世間一般的に人が歩んでいる社会生活を犠牲にして自分がやりたいこと、自分が信じ、価値あると考えてきたことを優先した生活をおくってきたということではないかと推測します。

 例えば、1932年6月と推定されている宛先不明の手紙では、宮沢さんは、「からだが丈夫になって親どもの云ふ通りも一度何でも働けるなら、下らない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨てゝもいゝと存じ居ります」と言い放っています。

 さらに、多くの先行研究者の方々が言及している1933年9月11日付柳原昌悦さん宛の手紙の一文があります。その日付は宮沢さんが亡くなる直前のもので、その手紙の中で宮沢さんは、自分の「惨めな失敗」は「今日の時代一般の巨きな病」である「『慢』というものの一支流に過って身を加へた」ためであることを告白しているのです。

 その中で次のように言っています。「風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の技にも均しいものです」と。

 このとき、宮沢さんは、体が健康・丈夫で働き、日常生活がおくれることがいかに幸せなことなのであるかについて実感していたのではないでしょうか。そうして柳原さんに呼びかけます。「一時の感激や興奮をさけ、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」と。

 宮沢さんは、また生き続けていくことの大切さと、それがいかに幸せなことであるのかということについても実感していっていたのではないかと思います。宮沢さんの晩年の時期というのは、宮沢さん自身も宮沢さんが暮らしていた地域社会もある意味非常に病んでいました。

 地域社会に関して言えば、「まあかうなっては村も町も丈夫な人も病人も一日生きれば一日の幸せと思ふより仕方ないやうに存じます」という状態でした(1932年6月と推定されている宛先不明の手紙の下書)。

 宮沢さん自身についても、「私も去年の秋から寝ったきり、咳と痰がひどくもう死んだ方がいゝと何べん思ったか知れません。けれどもやっぱり一日生きれば一日の得」(1932年夏頃と推定されている手紙の下書)。という状態だったのです。

 そうした社会や自分自身の状況から、この時期宮沢さんは生きつづけることの大切さと幸せを実感していたのではないでしょうか。しかし、この時期宮沢さんがどのような幸福観をもつようになっていたのかということを考える上で、宮沢さんの家族の大切さへのあらためての気づきという契機を見逃すことはできないと考えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

歓迎される喜びを力にして

 宮沢さんが自分の肉体的、精神的健康を害してでも石灰肥料のセールスをしつづけるよう突き動かしていたものとは何だったのでしょうか。基本は、宮沢さんが生きていた時代の冷害をはじめとする自然災害に打ちのめされていた農業生産の状況を何としても改善したいという願いだったのではないでしょうか。

 現在の農業生産技術の視点から見て、宮沢さんがセールスしていた石灰肥料がそのためにどれだけの有効性をもっていかについては大きな疑義が提出できるのかも知れません。しかし、宮沢さん自身は自分がセールスしている石灰肥料で土壌を改善し、自然災害に強い農業生産の土台を築けると信じていたものと思われます。

 和田さんは、宮沢さんがセールスしていた石灰肥料を使って高村幸太郎さんが岩手県山口村で食べるために開拓を実践し、それを文芸作品として残していることを紹介しています。「開拓に寄す」という題のその作品は次のようなものです。

 「掘っても掘ってもガチリと出る石ころに悩まされ/藤や蕨のどこまでも這う細根(ほそね)に挑(いど)まれ/スズラン地帯やイアタドリ地帯の/酸性土壌に手をやいて/宮沢賢治のタンカルや/源(ママ)始そのものの石灰を唯ひとつの力として、/何もない戦後以来を戦った人がここに居る」というものです。

 少なくとも、高村さんは、「宮沢賢治のタンカルや/源始そのものの石灰を唯ひとつの力として」いたのです。高村さんは、石灰肥料のことを、「原始」ではなく、富の源という意味で、「源始」と表現しているのではないかと思います。

 また先行研究においては、東北砕石工場の労働者の人たちとの交流が宮沢さんのセールスの大きな原動力となっていたことが指摘されてきました。『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』の著者である伊藤良治さんがそれはどのような交流であったのかについて詳しく紹介しています。

 東北砕石工場は、先に参照していた和田さんによれば、肥料の製造販売会社としては実績のない、しかも肥料に関しては素人の経営者が経営している宮沢さんがセールスの仕事をするには「最悪」の条件の会社だということでした。

 しかし、働く人にとって東北砕石工場がどのような環境の会社であったのかについて、伊藤さんは、働く人たちが楽しく交流している心温まる雰囲気をもった会社であったことを描いています。

 鈴木實さんの著作である『宮澤賢治と東山』から次のような叙述を伊藤さんは引用紹介しています。東北砕石工場では、「工場の機械が止まっても、(働いている人たちは)すぐ帰ることはなく、あとはみんないろりを囲んでお茶をのみながらゆっくり四方山話に興じ、特に冬などは、おそくまで話に夢中になって楽しそうに遊んで帰りました。時々東蔵が酒などを出しますと、一層にぎやかになりました」[( )内は引用者によるものです。]というのが、それです。

 宮沢さんはそうした雰囲気をもつ工場に、伊藤さんによれば、「身を低くして入ってきた。そしてたちまち工場で働く工員たちと賢治との間にあたたかい血の通う親和関係が形成されていった」というのです。

 工場で働いていた彼らは、「賢治の人柄を慕い、尊敬のまなざしで賢治の訪れを迎え、お土産をもらえば単純に喜び、また彼と話しできたと自慢するような工員たちがそこにい」たというのです。そうした歓迎ぶりは、それまでとりわけ貧しい農民の人たちから何かにつけて白眼視されてきた宮沢さんにとっては、どんなにかうれしいことだったか、想像するにあまりある出来事だったのではないでしょうか。

 伊藤さんが紹介する宮沢さんと東北砕石工場で働く人たちとの交流の風景の中で、畠山八之助さんの父と娘さんとの交流は、ひときわ興味を惹くものではないかと思います。東北砕石工場で働いている人たちは、基本は農民の方々ですが、農業だけでは生活できず、そのために工場で働かなければならなかった人たちでした。その中でも、畠山父娘さんの家族は貧しい生活をしていたというのです。

 そして、伊藤さんによれば、宮沢さんは、その父娘の家を訪ね、「八之助が『貧乏は少しも恥ずかしいことではない』と娘を励ましながら、その日その日を、やっと過ごしてきている親子二人の暮らしぶりに接し」ていたと言います。そこで、「二杯目のお茶に、生石灰を焼き釜から拾いに外に出たとき、そっと涙も拭ったことであろうと」推測しています。

 それは、「ヒドリのときは涙をながし」という「雨にもまけず」の一節を彷彿させる描写となっているものです。伊藤さんは、上記の著作出版時、「石と賢治のミュージアム」の館長をしていましたので、ここまで参照してきた宮沢さんと東北砕石工場の工員の人たちとの交流風景は美化されているかもしれないという疑念も起こるかもしれません。

 ただ肥料設計や営農相談に関しては厳しい批評をしていた和田さんも、東北砕石工場におけるセールスを通して宮沢さんは、「百姓がヒドリにしか生きることができないなかに立つことができた」のではないかと論じています。

 「百姓が凶作のとき、日手間とりにゆく、賢治は石灰販売のため病をおして東京まででかけていく、あい通ずるものがうまれて」きて、東京の病床の中での「『雨ニモ…』構想への集大成へとむかっていったものとおもわれる」と和田さんも言及しているのです。

 ヒドリをしなければ生活が成り立たない東北砕石工場で働く人たちの生活実態を知ったことが宮沢さんの健康を害してまでのセールスへののめり込みの背景となっていたのではないかと、伊藤さんは推測しています。

 すなわち、「その実態を知った賢治が『この人達のためにもと、努力の決意を固めた』ことに、私(伊藤さん)はすなおに共感できる」[( )内は引用者によります。]というのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

肥料セールスマンにとって辛く険しい社会的および市場的環境

 宮沢さんが東北砕石工場のセールスマンとして販路開拓の旅にでたときの客観的環境は非常に厳しいものがあったようです。そのことに関しては、宮沢さん自身ある程度認識はしていたようです。

 東北砕石工場の鈴木さんへの販路開拓に関する献策の中で、「今後農業の進歩に伴(つ)れてだんだん競争者もできて来ることはご覚悟がいります」と述べているのです。しかし、そのときは、もちまえの自分の思いに熱中しているあまり、その競争の中でも勝ち抜ける見通しをもっていたようなのです。その楽観的な背景には、高等農林高校時代の人脈を頼りにすることができることへの期待があったからではないかと考えます。

 しかし、現実はその期待をはるかにしのぐ厳しさがあったのです。長く農林省で仕事をし、日本農業経営をめぐる歴史的状況についても専門的な知識を有している和田さんによれば、「賢治は最悪の条件のなかで肥料商をはじめた。しかも間接肥料といわれ作物に施用しなくても、といわれる肥料用石灰の花巻販売店の店員、販売担当店員として」働き始めることになったのです。

 では、「最悪の条件」とはどのようなものだったのでしょうか。まず、当時の肥料をめぐる政治的・経済的状況が最悪であった。すなわち、当時肥料問題は、「政治、経済、国際関係などだきこんでいたし、これをめぐって農政と商工政策の間に食い違いがあり、肥料業界と農業団体との間に軋轢が生じていた」のです。

 さらに、当時は、「冷害、凶作、経済恐慌で農業生産や農家の意気が消沈していたとき」だったのです。そのため、なによりも多くの「農家に肥料代支出の余裕はな」い状況でした。しかも、宮沢さんがセールスしようとしていた「石灰肥料は土壌改良剤としての効用は期待できても、作物の生育に直接の作用はすくない」ものだったのです。

 さらにその上、東北砕石工場という「会社は確たる製造、販売の実績がある企業とはいえないし、すでに先発の企業が市場をおさえている。社長の鈴木東蔵も他の職業からの新規参入の人物」だったのです。

 和田さんによれば、さらにさらにその上に、当時肥料業界は生産過剰状態にあり、さまざまな不当な廉売や粗悪品の販売などが横行しており、売れれば売れるほど、経営的にはむしろ会社が追い込まれるような状況にさえあったのです。

 そうした状況にもかかわらず、先に言及していたように、宮沢さんは高等農林学校および国民高等学校時代の人脈を頼ることで自分のセールス活動にある程度の自信をもっていたのではないかと思います。事実、宮沢さんはまさしくそれらの人脈を頼ってセールス活動を行っていったのです。

 確かにその結果、宮沢さんのセールス活動によって東北砕石工場は、小さくない販売実績をあげたと言われています。しかし、一方では、現実には、人脈頼りのその活動は、反って宮沢さんの肉体的、精神的健康を害する方向に追い込んでいくことにもなっていったものと思われるのです。

 和田さんの前掲書は、その軌跡を詳細にフォローして描き出しています。関心のある方はぜひ和田さんの著書を読んでいただければと思います。ここでは国民高等学校時代のときその運営主事であった高野一司さんとの関係についての和田さんの描写を参照しておきたいと思います。

 そのとき宮沢さんはその国民高等学校において「農民芸術概論」の講義を担当していました。そして当時その国民高等学校をめぐっては内務省と文部省の間で確執と対立があったというのです。その点で言うと、高野さんは内務省の管轄に、そして宮沢さんは文部省の管轄となっていたのです。

 さらに、宮沢さんは、高野さんに対し、「偽善的ナル主事、知事ノ前デハハダシ」という公憤を抱いていたのではないかと和田さんは指摘しています。そして、宮沢さんが東北砕石工場のセールスをしていたとき、高野さんは宮城県の広淵沼干拓事業所の所長を勤めていました。その高野さんのところに宮沢さんはセールスに行き、購入を断られています。

 すなわち、「本年はちょっと難しいと断られた」のです。そのことを、和田さんは、高野さんの意地悪でも、「にべのない対応」でも、さらに「非情と言」えるものでもなかったと評価しています。むしろ当時の広淵沼干拓事業をめぐる状況から断らざるをえなかったのだそうです。

 和田さんは言います。まず「その頃の入植者の経営と生活の実情から(肥料購入は)困難」[( )内は引用者による。]だったのです。また広淵沼は、「干拓後の風化によって堆積された植物性養分が豊富で泥土を耕しやがて水稲をつくる豊沃な耕土とな」っており、石灰の必要もなかったのです。

 和田さんは問います。「それらのことについて賢治はどの程度理解していたのだろうか」とです。さらに別の個所においてではあるのですが、宮沢さんにより厳しい問いかけを行っています。

 肥料商となった「賢治は農家小作人の理解者としてであるのか、農村、農家からの収奪する側にあるのか、ここに宮沢賢治の今日をみきわめる分岐点があるといえる」というようにです。

 和田さんによれば、宮沢さんはそうした問いにどう答えたらよいかについて、うすうす気づいていたのではないかと見ているようです。だからこそ、そのことが宮沢さんを精神的に追い込む要因となっていたのではないかとも推測しています。

 同じく和田さんによれば、石灰肥料のセールスに来た宮沢さんと会った高野さんも感じ、宮沢さんの「境遇を察知した」のではないかと言います。すなわち、高野さんは宮沢さんの訪問を受け、対面したとき、「賢治はこの仕事に適していないと判断し」たのです。

 そして、「それは石灰肥料の販売は賢治の本来の仕事ではなく、本来の仕事にもどるべきということである。それは高野が山形県自治講習所の加藤所長のもとで、萩野村(新庄市昭和)の開墾入植そして大高根村(村山市)の開墾で接した青年たちの究極から学びとったものである。賢治と久しぶりの対面、会話でまず感じたことは身体の疲労の激しさであり、精神の衰退ではなかったか。それは孤立と逃避のにおいではなかったか」という想いからのものだったと言うのです。

 ここまで参照してきた和田さんの言説が果たして正しいものなのかどうか、残念ながら自分は判断することができません。ただそうした評価を受けるような活動に宮沢さんはなぜ身も心も捧げるようにしてのめり込んで行ったのだろうかという疑問が頭をよぎるだけです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

東北砕石工場のサラリーマンになる

 宮沢さんは人生最後の活動として、東北砕石工場の営業活動を行っています。そしてそれは宮沢さんにとって大変厳しく苛酷なものでした。その活動の中で宮沢さんは病に倒れ、帰えらぬ人になってしまったといっても過言ではないとさえ思えるのです。

 では宮沢さんにとって東北砕石工場でのサラリーマン生活はどのような意味をもつものだったのでしょうか。結論から言えば、それは宮沢さんの仏国土建設の夢実現にとって大切な活動だったのです。私たちが生きている娑婆世界における極楽浄土を意味する仏国土とはどのようなイメージの世界なのでしょうか。浄土三部経の一つである「無量寿経」を参照しておきましょう。

 「無量寿経」によれば、「かの世尊・アミターバ(無量光)の<幸あるところ>と名づける世界は、富裕であり、豊かであり、平安であり、食物が豊饒(ほうじよう)であり、美麗であって、多くの神々や人間で充満している」世界なのです。

 宮沢さんは羅須地人協会の活動を始めるときから、できればそうした豊饒の世界を実現したいと願っていたのではないでしょうか。しかし、事実は、今日一日生き延びることができるかどうかという非常に悲惨な状況を甘受しなければならなくなっていたのです。

 何かしなければならないと思ってはいたのですが、何をしたらよいのか、宮沢さんは考えあぐねていたのではないかと思います。そうした折り、東北砕石工場の鈴木東蔵さんが、工場の製品である炭酸石灰販売広告の相談のために、宮沢さんを訪問するのです。1930年4月のことです。

 『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』の著者である佐藤竜一さんによれば、そのとき宮沢さんは病に倒れており面会謝絶の状態だったといいます。そこで5分だけということで会って話し合ううちに、話がはずみ長時間の話し合いになったのです。

 佐藤さんはその理由を次のように推測しています。「賢治はかねがね肥料の講義には、窒素、燐酸、加里の三要素に石灰をも加えていたといわれます。そしてこれは酸性土壌の改良には欠くことのできない重要肥料で、自らも宣伝しながら土地改良に努力しておりましたので、大いに関心がたかまったためでしょう」と。

 「ふたりは、話をして意気投合したようだ。翌日の四月一三日には賢治が訪ねて来てくれたお礼の手紙を書き、すぐに東蔵の返事があった。この手紙には、広告文も同封されていた」のです。東蔵さんから正式な事例をもらう以前から、事実上工場の広告相談役としての活動が開始されていたことを、そのことは示しているのではないでしょうか。それだけ、宮沢さんにとっては、東蔵さんから依頼された仕事には魅力があったのではないかと思います。

 ひとつは、仕事内容の魅力です。土壌改良のための石灰が普及すれば、農業生産における増産の土台が築けます。そのことで東北砕石工場という地域経済を支える事業が発展していくことに貢献できるのです。宮沢さんは生涯何らかの実業に関心をもちつづけていたのではないでしょうか。ただ厳しい市場経済の下における経営のための資質には大いに欠けていたのですが。

 しかも、今回の仕事は自分が研鑽をつんできた専門知識を活かせる、頭脳労働のように当初思えたのではないかと推測します。宮沢さんは、それはいつも実現することはありませんでしたが、つねづね会社の相談役か顧問のような自分の弱い体や健康に負担をかけず自分の生活費を稼げる位の「軽い」仕事をしながら、残りの時間で文学活動ができることが自分の理想と考えていたのではないでしょうか。

 そして今度こそはその夢が叶いそうだと感じたのではないかと思います。しかし、ここでまたしても宮沢さんは、私が私が何とかしなければという、宮沢さんの体や健康にとっては非常に負担となる道を歩んで行くことになってしまうのです。宮沢さんという人はそういう人なのでしょう。

 すなわち、鈴木さんから同封されてきた広告文の改善策だけでなく、「貴工場に対する献策」を宮沢さんは次々に行っていくのです。その内容は、同じく佐藤さんによれば、「販売名称、販価、品質、販路の開拓、新肥料の製造、貴工場の設備でできる他の事業の六項目にわた」っていたのです。

 佐藤さんは、その献策は、「共同経営者とでも言っていいくらいの経営的な視点が入っている」ものだったのです。問題は「販路の開拓」に関する献策です。なぜならば、「後に、この献策にほぼ沿って、賢治のセールスマンとしての仕事ははじま」っていったからです。そして、その道は、自分の健康を害し、死へとつづく道となってしまうのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

自然との闘いから宮沢賢治さんが学んだこととは(3)

 宮沢さんは苛酷な自然との闘いに敗れたことを認め、再びトルストイさんの人生論から学び、それまでの自分のあり方を痛切に反省していました。それは、他者の目から見てとてもとても痛々しく見えるのでした。しかし、宮沢さんはその痛切な反省を通し、新たな自己の見方と生きる方向性を定めるのです。

 その一つは、貧しい岩手県農民、とくに女性農民のすばらしさを素直に認めることができるようになりました。それは、「[これは素朴なアイヌ風の木柵であります]」という詩の作品に表現されていたように思います。その作品の該当する部分とは、

 「斯ういふ角だった石ころだらけの/いっぱいにすぎなやよもぎの生えてしまった畑を/子供を生みながらまた前の子供のぼろ着物を綴り合わせながら/また炊[爨]と村の義理首尾とをしながら/一家のあらゆる不満や慾望を負ひながら/わづかに粗渋な食と年中六時間の睡りをとりながら/これらの黒いかつぎをした女たちが耕すのであります/……/この人たちはいったい/牢獄につながれたたくさんの革命家や/不遇に了へた多くの芸術家/これら近代的な英雄たちに/果して比肩し得ぬものでございませうか」というものです。

 この作品で描かれている女性農民たちは、宮沢さんが願ってもできなかった数多くのことを、苛酷な生活環境と人間関係の中でりっぱにやりとげているのです。宮沢さんはそのことに、素直に驚嘆し、感動をもしていたのではないでしょうか。

 そのことと関連するのですが、苛酷な自然との闘いを通して宮沢さんが学んだこととして、農家経済を確立することの重要性をあらためて実感したことをあげることができるのではないでしょうか。和田文雄さんによれば、羅須地人協会の活動を始めるに際して、宮沢さんには、「農家ののぞんでいる営農技術、農家という家庭の生活の豊かさの実現をはかる考え」があったといいます。

 さらに実際に羅須地人協会での活動を始めてみると、それでなくても農業だけでは宮沢さん自身だけの生活をも賄えないことを痛感し、忸怩たる思いをしなければなりませんでした。その上、苛酷な天候不順と世界恐慌という経済災害が岩手の農民の人たちに襲いかかってきたのです。

 1926年12月15日付の父政次郎さんへの送金を乞う手紙の中で、自分の不甲斐なさを吐露しています。

 すなわち、「けれどもいくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどんなに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうなことは一日一日身にしみて判って参ります……わたくしは決して意志が弱いのではありません。あまり生活の他の一面に強い意志を用ひてゐる関係から斯ういふ方にまで力が及ばないのであります。そしてみなさまのご心配になるのはじつにこのわたくしのいちばんすきまのある弱い部分についてばかりなのですから考へるとじっさいぐるぐるして居ても立ってもゐられなくさへなります。どうか農具でもなにでもよろしうございますからわたくしにも余力を用ひて多少の定収を得られるやう清六にでも手伝ふやうにできるならばお計ひをねがいます」というようにです。

 苛酷な天候不順や世界恐慌による経済不況の嵐は、そうした宮沢さんの願いを打ち砕いただけでなく、岩手の人々の生活を悲惨なものとしていったのです。自然との闘いに敗れたことを認めている1932年6月の宛先不明の手紙(下書)の中で、宮沢さんはそのことを次のように表現しています。

 それは、「まあかうなっては村も町も丈夫な人も病人も一日生きれば一日の幸せと思ふより仕方がないやうに存じます」というものです。

 そうした状況に宮沢さん自身は「それにしてもどうしてもこのまヽではいけないと思ひながら、敗残の私にはもう物を云ふ資格もありません」と言うしかなくなってしまったのです。万策尽きてしまった悔しさはいかばかりであったでしょうか。それでもなお、宮沢さんは最後まで農業増産の活動である肥料相談をつづけるとともに、新たな自分の生き方を求めつづけようとするのです。

 死去する3ヶ月強前に当たる1933年6月5日付宛先不明の手紙(下書)の中で、「たヾ咳が烈しくて困ります。日中はそれでも読み書きや肥料設計などできます」と書いています。同時に、同じ手紙の中で、「借金は町も村もです。町の生活だってもう食事や医療まで切り込んでゐ」ることを宮沢さんは心配しているのです。

 地域づくり論を研究してきた者の目から見ると、この手紙の中の次のような叙述の中に宮沢さんのそうした地域の人々の窮状を何としても救いたいという執念を感じさせられ、驚かされるのです。

 その方策は、「今日死ぬか死ぬかと思ふなかから考へた」ものなのです。すなわち、宮沢さんにとって万策が尽きた今、「もはや今日になって貧乏のはなし、前途に光明あるはなし、何かの目論見みなはやりません。東洋人はいかなる物質の条件でもその中で楽しむことを工夫しそれができるのです。その工夫こそあなた方の立場から村を救ふ道であり自らを救ふ道であると思ひます」という方策で悲惨な状況に立ち向かおうというのでした。

 何だ戦前日本の戦時体制にも通じる単なる精神主義的発想じゃないかという批判もできるかもしれません。しかし、どんな状況下でも、「楽しむこと」を追求しようとしている宮沢さんが何を求めようとしていたのかを考えさせられる提言でもあると感じます。

 

                   竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン