シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「藤根禁酒会へ贈る」

 1927年8月20日の試練を経て、宮沢さんは、自然との闘いに関してはもはや自分の出る幕ではないと悟ったのではないでしょうか。1930年4月4日付の高橋武治さん宛の手紙の中で、宮沢さん自身、当時自分が傲慢であったことを告白しています。それは、次の手紙の文章です。すなわち、

 「私も農業校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終りのころわずかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです。もう一度新しい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬いたいとばかり考へます」とです。

 この手紙から、宮沢さん自身、冷害との闘いを通して自己が「虚傲」であったとの自己認識にいたったことが示されています。その結果、「本統の百姓」になるという自己の目標を断念したことも表明されています。同時に、「みなさんのご厚意」に酬いるためにも「新しい進路」を探索していることも表明されています。では、その新しい進路とはどのようなものだったのでしょうか。さらに、宮沢さんは自然との闘いについてどのような展望をもっていたのでしょうか。ここでは後者の問いについて考察を進めていこうと思います。この点に関しては、「詩ノート」の中の「藤根禁酒会へ贈る(作品番号一〇九二〔〕)」という作品に示されていると思います。その冒頭に次のように記されています。

 「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが/今日の小さなこの旅が/何という明るさをわたくしに与へたことであろう」とです。

 この文章は、宮沢さんが教え授けなくとも、農民の人たち自身が自分たちの地域にあった稲作法を創造し、過酷な自然に立ち向かおうとしている活動に勇気づけられていることを推察させてくれます。宮沢さんはそのことをつづく文章の中で次のように表現しています。すなわち、

 「雲が蛇龍のかたちをになってけわしくひかって/いまにも降り出しさうな朝のけはひではありましたが/平和街道のはんの並木は/みんなきれいな青いつたで飾られ/ぼんやり白い霧の中から立ってゐた/しかも鉄道が通ったためか/みちは両側草と露とで埋められ/残った分は野みちのやうにもう美しくうねってゐた」とです。

 この文章では、杉山式の稲作法を実践している農民の人たちの試みの前途を、「平和街道」という表現で著していることに惹かれます。宮沢さんは、つづけて綴ります。

 「この会がどこからどういふ動機でうまれ/それらのびらが誰から書かれ/誰にあちこち張られたか/それはわたくしにはわかりませんが/もうわれわれはわれわれの世界の/一つのひヾを食ひとめたのだ」とです。

 この文章にある「ひヾを食いとめた」とは、杉山式の稲作法はが「この三年にわたる烈しい干害」に対する対策についてものであることを示していますが、同時にそれは過酷な自然との闘いであるという点で、冷害への対策的対応の在り方とも共通するものではないかと思います。この文章で重要な点は、宮沢さんがここでは「ひヾを食いとめた」のは、自分ではなく、「われわれ」であるということを強く意識したということではないかと考えます。すなわち、「われわれの世界の……ひヾを食いとめ」るのは、「われわれ」なのです。

 しかも、宮沢さんは、干害に対抗する稲作法の成功に甘んじることなく、「禁酒会」を建設し、さらに自分たちの生活改善を志向している農民の人たちの姿に、自分がめざしている自分たちが生きて生活しているこの世に極楽浄土を建設する可能性が開かれつつあることの予感を感じているようなのです。それらは、この作品では、以下のように著されています。

 「じつにいまわれわれの前には/新しい世界がひらけてゐる/一つができればそれが土台で次ができる」

 「われわれは生きてぴんぴんした魂と魂/そのかヾやいた眼と眼を見合せ/たがひに争ひまた笑ふのだ」とです。

 実に宮沢さんは、過酷な岩手の自然との闘いを通して、自分が「虚傲」であったことを悟っただけでなく、自分がめざしていた極楽浄土建設の方向性をも見出したと言えるのではないでしょうか。だとすると、宮沢さんは、その後の極楽浄土建設過程の中での自己の役割をどのように定めようとしたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「〔二時がこんなに暗いのは〕」

 宮沢さんは、自身が肥料設計した稲を次々と倒しながらうちつづく雷をともなう冷雨の中をさまよい歩いています。そのときに見た農民の人たちの生活の心象風景とはどのようなものだったのでしょうか。『春と修羅第三集』における「〔二時がこんなに暗いのは〕」はその心象風景を詠んだ作品です。

 そしてそのもとになった作品が、「詩ノート」における「路を問ふ」です。ここでは「路を問ふ」に著されている宮沢さんの農民生活に関する心象風景から参照していきたいと思います。

 「たうたうぶちまけやがる雷め/路が野原や田圃のなかへ/幾本にも斯う岐れてしまった上は/もうどうしてもこの家で訊くより仕方ない/何といふ陰気な細い入り口だらう/ひばだの桑だの倒れかかったすヽきだの/おまけにそれがどしゃどしゃぬれて/まるであらゆる人を恐れて棲んでるやうだ/雨のしろびかりのなかの/小さな萱の家のなかに/子供をだいて女がひとりねそべってゐる/   そのだらしない乳房やうちわ/   蠅と暗さと、/    女は何か面倒そうに向ふを向く」

 以上の引用した文章からも分かるように、「路を問ふ」では、宮沢さんはこの作品だけを見るならば、当てもなくさまよい、枝分かれしている「路」を訪ねるために、偶然立ち寄った家で、陰気で暗い家の中にだらしなく寝そべっている女の、しかも宮沢さんの問いに対して面倒だとそっぽを向いてしまった心象風景を読んでいるように感じます。もしかしたら、女がそっぽを向いてしまった風景に、自分は非難されている、または嫌われていると感じたのかも知れません。

 では宮沢さんは何の意味もなく雷をともなう冷雨の中をさまよいあるいていただけだったのでしょうか。すなわち、ただ不安と心配で居ても立っても居られないからだったのでしょうか。または、絶望のあまりの彷徨だったのでしょうか。この点に関して参考となる文章が、『春と修羅第三集の補遺』の中の「〔降る雨はふるし〕」という作品の中にあります。それは、

 「もうレーキなどほうり出して、〔〕/かういふ開花期に/続けて降った百ミリの雨が/どの設計をどう倒すか/眼を大きくして見てあるけ」という文章です。

 そして、これらの行に先行する文章では、「降る雨はふるし/倒れる稲はたほれる/たとへ百分の一しかない蓋然が/いま眼の前にあらはれて/どういふ結果にならうとも/おれはどこへも逃げられない」と綴られており、まさしくそのときは追い詰められた心情にあったことを詠んでいるのです。そして、その心情は、自分の肥料設計を受け入れてくれた農民の人たちへの心象風景にも反映しているようです。すなわち、この作品の最後の数行にはそれが次のように表現されています。

 「たくさんのこわばった顔や/避難するはげしい眼に/保険をとっても〔辨〕償すると答へてあるけ」とです。すなわち、結果責任を取らなければならないと追い詰められていた心情による目から、農民の人たちの「こわばった顔」は、自分を非難している風景として宮沢さんは感じていたのです。

 このことを確認し、上記の「路を問ふ」における農民の生活風景に関する心象風景は、「〔二時がこんなに暗いのは〕」においてはどのように書き改められているのか、そのことに目を向けたいと思います。この作品では上記の心象風景は、

 「そしていったいおれのたづねて行くさきは/地べたについた北のはげしい雨雲だ、/こヽの野原の土から生えて/こヽの野原の光と風と土とにまぶれ/老いて盲いた大先達は/なかばは苔に埋もれて/そこでしづかにこの雨を聽く」と書き改められています。

 この「〔二時がこんなに暗いのは〕」では、「盲い」てなおしずかに雷をともなう冷雨の先行きを耳で聞くことによって読み取ろうとする「大先達」を描いています。それには、宮沢さんの、自分はこれからどうすればよいか、自分には何がたりなかったのか、必死に探求しようとする宮沢さんの心象風景が表現されています。そして、自然と闘うには、「盲い」るまで体をはった息の長い闘いの経験が必要なことへの思いをあらたにしたのではないでしょうか。

 ではどうすればよいのか、その答えを求める模索はつづきます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「〔もうはたらくな〕」(3)

 ここで取り上げている宮沢さんの「〔もうはたらくな〕」という詩は、宮沢さんの肥料設計という活動が、(気候変動を含む)地域の自然および農家経営の実情を熟知し、それらへの対策および改善法として確実な見通しと自信をもって臨んだものではなかったことを示しています。しかしそのことがかえって、この活動開始後宮沢さんが農業生産という視点でとくに天候を中心に自然観察することを促すものとなっていたように思います。

 さらに、折角その努力が実ろうとした瞬間の、うちつづく冷雨による稲の倒壊という試練は、宮沢さんが地域の農家生活や農業生産の様子を観察することを促すものとなったものと思われます。しかも、1927年8月20日の日付の作品だけを見ても、『春と修羅第三集』として発表された作品とそれらの作品に関係する補遺や「詩ノート」の作品を比べたとき、それら農家生活観察の目線と観察からえられ作品に表現された心象風景が変化していることに気づきます。

 ではそれらの変化とはどのようなもので、何を意味するものだったのでしょうか。まず『春と修羅第三集』の「〔もうはたらくな〕」のもとになった「詩ノート」の「〔ぢしばりの蔓〕」(「詩ノート」における作品番号1087)における表現との比較をしてみたいと思います。

 第一に気づくのは、「もうはたらくな」では「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲」という文章は、「ぢしばりの蔓」では、「おれの教へた稲」という表現となっていたということです。それは、肥料設計という活動における宮沢さんと農民との関係性を、宮沢さんが教え・教えられる関係性として捉えていたことを示しています。そしてそれは、さらに農民の人たちが、宮沢さんが教えたとおりに行動するようにと、つよいことばで言えば、強いていたことを示しているのです。

 では、農民の人たちは宮沢さんの教えの下に、どのような行動をとったのでしょうか。それは、「祈り」(「詩ノート」における作品番号1088)という作品に著されています。その文章は、

 「一冬鉄道工夫に出たり/身を切るやうな利金を借りて/やうやく肥料(こえ)もした稲を/まだくしゃくしゃに潰さなければならぬのか」というものです。この文章をみて、ようやくうちつづく冷雨による稲の倒壊という事態に宮沢さんがあれほど狼狽しなければならなかったのか、その理由に合点がいきました。

 また、「もうはたらくな」の中にある「青ざめてこわばったたくさんの顔」という文章は、宮沢さんの教えに従った行動をとった農民たちの宮沢さんに対する怒りを表現したものだけではなく、「利金」つきの借金をどうしたらよいかという不安に駆られている姿を表現するものだったのではないかと推測できるのです。そしてそのことに宮沢さんは確信と自信もなく自分が指導してしまったことへの責任を大いに感じざるをえなかったのでしょう。宮沢さんはそういう人だったのです。しかも、その心情は悲哀と悲壮感にみちています。

 宮沢さんは表現します。「穫れない分は辨償すると答へてあるけ/死んでとれる保険金をその人たちにぶっつけてあるけ」とです。この文章には、宮沢さんの農民の人たちに対する怒りと自己へ向けられた反省の気持ちがいりまじっている複雑な心情が表現されているような気がします。そして、ここまで参照してきた「詩ノート」の表現部分は、「もうはたらくな」の中では次のように書き改められていました。

 まず前者の表現に関してですが、「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が」と書き改められています。「教へた」という自負心的表現が、その結果としての事態に対する「責任」を感じる心象風景へと改められています。

 後者の表現に関しては、「どんな手段を用ひても/辨償すると答えてあるけ」と改められています。「死んでとれる保険金」の文章は、「どんな手段を用いても」と、少し冷静さを取り戻している表現に和らげられています。また、そのお金を「その人たちにぶっつけてあるけ」と、「詩ノート」においては農民の人たちへの怒りの感情さえ示していた表現が、これも「答へてあるけ」と和らげられています。

 さらに、1927年8月20日づけの一連の作品を、『春と修羅第三集』の作品群とその補遺および「詩ノート」のそれらと比べて見ると、厳しい事態下における農民の人たちの生活風景へ向けられた宮沢さんの心象表現にも変化が確認されるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「〔もうはたらくな〕」(2)

 宮沢さんの父政次郎さんは、息子である賢治さんを傲慢であったと評していたと言われています。宮沢さんに興味をもち、宮沢さんに関する著書を読み、はじめてその指摘を目にしたとき、とても信じられませんでした。どのような意味で、政次郎さんは賢治さんのことを傲慢であると評したのか、とても気になったことを思いだします。そのときは、勝手に、もしかしたら高等教育を修めながら経済的に自立することなく、親のすねをかじりながら自分の好きなことに夢中になっていた姿をそのように評したのではないかと了解していました。

 ところが、いま、宮沢さんの1927年8月20日づけの一連の詩をどのように受け止めればよいかについて考えて行く中で、あらためて政次郎さんが賢治さんを傲慢であったと評した意味を考えてみようという気持ちになっています。それは、仮説ですが、宮沢さんは、自分は阿弥陀仏のように、すべての人の幸せを実現しなければならない、そしてそれを成し遂げる力をもった人物にならなければならない(または自分はそうした力をもった人物になれる)と、信じていたのではないかと感じます。そして、そのことを、父政次郎さんは傲慢であると評したのではないかと推測します。

 それだけ、1927年8月20日づけの一連の詩の作品群に描かれている宮沢さんの心情は激しく乱れ、狼狽の極みとなっていると思うのです。作品番号1090番の「〔何をやっても間に合わない〕」という作品にも宮沢さんの乱れ、狼狽している心情を感じるのです。

 この作品では、「ありふれた仲間」たちの、きっと凶作になった稲作を挽回しようとして様々な試みの姿に対する宮沢さんの心情が綴られています。「そのありふれた仲間のひとり/雑誌を読んで兎を飼って/巣箱もみんなじぶんでこさえ/木小屋ののきに二十ちかくもならべれば/その眼がみんなうるんで赤く/こっちの手からさヽげも喰へば/めじろみたいに啼きもする」

 「その〔約五字空白〕仲間ひとり/カタログをみてしるしをつけて/グラジオラスを郵便でとり/めうがばたけと椿のまへに/名札をつけて植え込めば/大きな花がぎらぎら咲いて/年寄りたちは勿体ながり/通りかヽりのみんなもほめる」

 「その〔約五字空白〕仲間ひとり/マッシュルームの胞子を買って/納屋をすっかり片付けて/小麦の藁で堆肥もつくり/寒暖計もぶらさげて/毎日水をそヽいでゐれば/まもなく白いシャムピニオンは/次から次と顔を出す」

 「〔約五字空白〕仲間ひとり/べっかうゴムの長靴もはき/オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る/顔もあかるく髪もちヾれてうつくしく」

 これら描かれている「ありふれた」または「〔約五字空白〕」「仲間」たちの実にさまざまな試みは、冷雨によって次々と倒されてしまい、宮沢さんの願い・祈りむなしく起き上がることなく凶作となってしまった事態を何とか乗り越え、少しでも明るさを取り戻そうとする試みだったのでしょう。宮沢さんは、「野の師父」の中で、もし冷雨によって倒れてしまった稲が起き上がらなかったときには、「今年もまた暗い冬を再び迎へるのです」と著していました。しかし、稲はついに起き上がらなかったばかりか、「仲間」たちのさまざまな立ち直るための試みも、

 「そのかはりには/何をやっても間に合はない/何をやっても間に合はない/その〔約五字空白〕仲間ひとり/その〔約五字空白〕仲間ひとり」という宮沢さんの直面した事態に対するあせり、狼狽する心情を和らげるものとはならなかったのでしょう。それだけ、宮沢さんが直面した事態は、彼自身にとってショッキングな出来事だったのです。また、彼の傲慢な心を打ち砕くものだったに違いありません。

 ではそうした自分にとってショッキングな出来事を宮沢さんはどのように受け止めていこうとしたのでしょうか。ここで取り上げてきた詩集『春と修羅第三集』の作品に関係している補遺や「詩ノート」の作品と比較し、作品の中の表現変化に注目してその問いを考えていってみたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「〔もうはたらくな〕」(1)

 この「〔もうはたらくな〕という作品は、『【新】校本宮澤賢治全集』の中の作品番号1088番の作品です。ここではこの作品の主題をどのようにとらえたらよいかについて考えていこうと思います。この点に関して、これまでも参照してきました旺文社文庫の『宮沢賢治詩集』を編んだ山本太郎さんは、この作品の解説で次のような指摘をしていました。すなわちこの作品には、宮沢さんの「自嘲とともに農民への怒りが生々しく表現され」ていますと。

 山本さんが指摘する「自嘲」はこの作品の前半部分の文章に表現されているものです。すなわち、

 「もうはたらくな/レーキを投げろ/この半月の曇天と/今朝のはげしい雷雨のために/おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次に倒れたのだ/稲が次々と倒れたのだ/働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのではない/ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかさうとする/卑しいことだ」と表現されています。

 そしてこの部分の表現を山本さんは次のように解説します。「『作品第一〇八七番』は『何といふ臆病者だ』という一行ではじまる。つまり稲が次々と風雨に倒されてゆく不安を、ま」はぎらそうとするかのように、めちゃくちゃに働く自分をののしっているのだ。『一〇八八番』ではその自嘲がさらに激しくなる。『もうはたらくな/レーキを投げろ』と」です。

 さらに解説は次のようにつづきます。「これほどナマの感情が、むきだしにされたことは、賢治の場合珍しいのだ。それはあたかも、彼の理想への努力が挫折のときをむかえたことを暗示しているかのよう」ですと。

 では、山本さんは「農民への怒り」という宮沢さんの感情についてどのように解説しているのでしょうか。まずその部分の作品の文章を確認しておきましょう。それは、

 「さあ一ぺん帰って/測候所へ電話をかけ/すっかりぬれる支度をし/頭を堅く縄(〔しば〕)って出て/青ざめてこはばったたくさんの顔に/一人づつぶつかって/火のついたやうにはげまして行け/どんな手段を用ひても/弁償すると答へてあるけ」というものです。

 山本さんはこの部分の表現に関して言います、

 「『青ざめてこはばったたくさんの顔』とは賢治を非難する農民の顔だ。その顔にむかい、『火のついたやうにはげまし』『どんな手段を用ひても/弁償する』と言うその声の悲痛さ。/賢治の善意、農民への無償の奉仕はいまや、彼らの浅はかな責任転嫁で、ふみにじられようとしているのだ」と。

 なるほど、宮沢さんと地域の農民の人たちとのそれまでの関係性から見れば、この作品の後半部分の文章は、山本さんの指摘するように「農民への怒り」を吐露する宮沢さんの心象を表現していると解釈すべきなのでしょう。しかし、ここで、もうひとつの解釈の可能性についても考えてみたいのです。それは、この作品の後半部分の文章は、宮沢さんの自分自身に対する怒りという心象をも著しているのではないかという解釈の可能性です。

 宮沢さんには、農法に関してほんのちょっと学問的に近代的農法を修めたというだけで、自分には地域の農業経営を確立し、豊かにできる「偉大な」力があるとの過信と驕り・昂ぶりがあったのではないかと推測できるのです。その過信と驕り・昂ぶりが、いとも簡単に、しかも無残に打ち砕かれようとしていたのです。宮沢さんはといえば、そうした事態に対してなすすべをもっていませんでした。

 この「もうはたらくな」という作品につづく、同じ日付の作品群を見ていくと、宮沢さんは、自分がとくに、天候の急変を予測できなかったこと、急変が起こったときそれにどのように対処したらよいのかについて何らの策を有していなかったこと、そして稲作が駄目になった場合どのようにして農家経済を確保したらよいかについての方向性を示すことができないことに大きなショックを感じていたのではないかと感じるのです。宮沢さんがしたことといえば、ただ祈るだけだったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「和風は河谷いっぱいに吹く」

 この「和風は河谷いっぱいに吹く」という作品も、宮沢さんが、自分が信じている宇宙世界を律している「透明な意志」の偉大な力に頼って、直面している困難な事態が一瞬で解決するような奇蹟が起こることを祈っている(願う)作品です。

 奇蹟よ起これ、そしてそこに、「たうたう稲は起きた/まったくのいきもの/まったくの精巧な器械/稲がそろって起きてゐる/雨のあひだまってゐた穎は/いま小さな白い花をひらめかし/しづかな鈴いろの日だまりの上を/赤いとぼもすうすう飛ぶ/あヽ/南からまた西南から/和風は河谷いっぱいに吹くいて/汗にまみれたシャツも乾けば/熱した額やまぶたも冷える」風景よ、現れよと祈る(願う)のです。

 そしてその風景は、宮沢さんにとって、宮沢さんが肥料設計し、実施した成果がつくりだすはずのものでもあったのです。

 「あヽ自然はあんまり意外で/そしてあんまり正直だ/百に一つなからうと思った/あんな恐ろしい開花期の雨は/もうまっかうからやって来て/力を入れたほどのものを/みんなばたばた倒してしまった」。そこで、宮沢さんは祈ります。

 「その代わりには/十に一つも起きれまいと思ってゐたものが/わづかの苗のつくり方のちがひや/燐酸のやり方のために/今日はそろってみな起きてゐる/森で埋めた地平線から/青くかヾやく死火山列から/風はいちめん稲田をわたり/また葉の葉をかヾやかし/いまさわやかな蒸散と/透明な汁液(サップ)の移転」よ起これと。

 もしこの願いが叶うならば、それは自分ひとりだけの喜びではなく、村中の喜びとなるはずのものなのです。

 「あヽわれわれは曠野のなかに/葦とも見えるまで逞しくさやぐ稲田のなかに/素朴なむかしの神々のやうに/べんぶしてもべんぶしても足りない」のです。

 しかし、現実は、無情にもそうした宮沢さんの切なる願いが「透明な意志」にとどくというようなことは起こらなかったのです。肥料設計の活動は、文字通り宮沢さんが心血を注いできていたもので、天候にも恵まれようやくその真価が誰の目から見ても露になるはずのものだったのです。だからこそ、その願いが裏切られるような天候の急変は、宮沢さんにとっては、「百に一つ」の出来事だったのです。それに比すれば、倒れてしまった稲が再び起き上がる奇蹟は、「十に一つ」の小奇蹟にすぎないものと、宮沢さんには感じられたものでした。しかし、その「十に一つ」の小奇蹟は起こらなかったのです。

 すなわち、「あらゆる辛苦の結果から/七月稲はよく分蘖し/豊かな秋を示してゐたが/この八月のなかばのうちに/十二の赤い朝焼けと/湿度九〇の六日を数へ/茎稈弱く徒長して/穂も出し花もつけながら/ついに昨日のはげしい雨に/次から次と倒れてしまひ/うへには雨のしぶきのなかに/とむらふやうなつめたい霧が/倒れた稲を被ってゐた」のです。そして、それら倒れた稲は、宮沢さんの祈り(願い)にもかかわらず、起きあがることはなかったのです。

 宮沢さんの心情は、祈り(願い)と希望から急速に絶望と、そして悲しみ・怒りへと変わっていくのです。その心象スケッチが、同じ日づけの作品で描かれていきます。それらの作品とは、「〔もうはたらくな〕」、「〔二時がこんなに暗いのは〕」、そして「〔何をやっても間に合はない〕」という一連の作品です。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(9)

 私たちが生きている宇宙世界におけるすべての存在は、相互に関係し合い、影響し合うことによって不断に変化しつづけています。それは、その根源には、その宇宙世界は、ビックバーンによる誕以来、いまだに急速なスピードで膨張しつづけているという事実があるからです。宇宙世界にあるすべてのものは、その影響を受けないわけにはいかないのです。

 ではそうした宇宙世界の存在様式の中における私たち人間世界のあり様を、宇宙世界の変化との関係でどのように把握していったらよいのでしょうか。ここまで宮沢さんと三澤さんの自然およびその自然とかかわって生活している農家の人への向き合い方を対比しながら参照してくる中で、ふと、そのような問いが頭に浮かんできました。

 さらにその問いの延長として、宇宙世界における不断の変化にははたして目的・意識性というものがあるのか、また人間は、宇宙世界におけるすべての存在の関係性とその関係性から生まれてくる変化および変化の先行きをはたしてどこまで把握し、その変化に対応することができるものなのか、というさらなる問いが頭に浮かんできました。またそれらの変化は、私たち人間の日常の生活の中では、日々の暮らしの中で起こってくる数々の出来事として認知されるものでもあります。

 宮沢さんは、宇宙世界には「透明な意志」が存在していると考えていたのではないかと思います。しかも、その意志は、宇宙世界のすべての存在の幸せを実現することができるようにと宇宙世界のすべての存在を有機的に統合しようとしているともとらえていたのではないかと推測します。

 三澤さんはと言いますと、三澤さんは自然およびその変化には目的・意識性はないものと考えていたのではないかと思えます。なぜならば、三澤さんは、自然に悪いものは何もないと考えていたからです。三澤さんは善悪の判断(とその判断の基礎にある目的・意識性)の世界は人間の世界だけのあるものであると主張していました。

 さらに話の流れを脱線させることになるかと思いますが、そうした問いを考えていたとき、現在話題になっている藤井聡太さんが将棋戦の八冠を達成したという快挙のことが頭に浮かんできたのです。

 将棋は、ここでの議論との関係で見るならば、将棋盤の上で繰り広げられる変化を、知力を尽くして迅速かつ正確に読み切ることを競い合う一種のゲームではないかと思います。そして、そのゲームの中で展開する変化は、明確な意図と競い合うためのルールが存在しているという制限がある中で起こる変化です。まず、ゲームが繰り広げられる世界は、81マスに区分けされている将棋盤というかなり狭い空間世界になります。その狭い空間の中で、競技者は、将棋盤をはさんで向かい合い、玉、飛車角、金銀、桂香、そして歩という8種の将棋ゴマをお互いに一手づつ指す、すなわち81マスのいずれかのマスに移動させていきます。その結果、相手の玉を詰ますことができた者が勝者になります。もちろん、競技者は自分が勝者になることを目的としてそのゲームを競い合うのです。

 ただ二人の人間が、明確な意図をもち、ただ81マスという狭い空間上で、さらに同じルールに従って競技を進めていくという世界の中でさえ、人間の思考力という点から見ると、その盤面で展開される変化は無限に近いものがあり、その変化をだれよりも読み取る力がある藤井さんは、将棋競技の世界における神的存在と捉えられるのではないでしょうか。

 そうした将棋の競技の世界における盤上の変化は、地球上の人間の生活世界から見れば、ほんの一部にしか過ぎない極小の世界の変化です。同じように地球上の人間の生活世界における変化は、無限に広がる宇宙世界もそれと比較すると、やはり極小の世界の変化にしか過ぎないものでしょう。

 しかも、宇宙世界全体の変化(出来事)は明確な目的をもって人間が生み出している世界でもなければ、変化(出来事)でもありません。宇宙全体の変化過程の中でその極小の一部として、人間の生活世界とその変化(出来事)は誕生してきたものです。人間の生活世界やその変化(出来事)さえ、人間の思い通りに制御することができないのです。ましてや、それをはるかに超越した宇宙世界およびその変化(出来事)を人間が制御することが不可能なことは、当然であると言ってよいのではないかと思います。

 だからこそ、宇宙世界全体のすべての変化(出来事)を自由自在に生みだすことができるほどの偉大な力をもった存在者というものがいると信じることができるならば、その偉大な力にすがって、人はまたどのようなことが起ころうと自分の願いが叶うという夢をもちつづけることができるようになるのではなかと思います。

 問題は、どうしたらその偉大な存在者が自分の願いを叶えてくれるようになるかということでしょう。例えば、まず信じること、そこに生きる意味と日々になすべきこと、行ってはいけないことを見出し実践することなどが、偉大な存在者に自分の願いに気づいてもらう、または自分がその偉大な存在者と同じような力をもつことができるようになるための方法と考えられるようになっていくのではないかと思います。

 宮沢さんもまた、そうした偉大な存在者が実在していることを信じ、その偉大な存在者の力にすがって自分の、冷害・凶作に苦しむ農家の人たちを何としても救いたいという思いが叶うという奇蹟が起こることを願い、祈ったのではないかと考えます。「和風は河谷いっぱいに吹く」という作品もそうした宮沢さんの祈り(願い)を表現した作品ではないかと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン