エンゲルスさんが労働者階級の人たちが資本主義社会の政治的変革主体となり得る資質として重視しているのは、既成の社会秩序やその秩序から生じてくる思考法に憎しみと怒りをもっていること、それゆえ、それらから自由な存在となっているという要素です。
エンゲルスさんは言います。「現在のような状況のもとでは、ブルジョアジーにたいする憎悪と憤激とをもってしなければ、労働者は自分たちの人間性を救い出すことができない」のですと。
他方、「現在のような状況」は、「イングランドのブルジョアの利己的な資質をいちじるしく発展させ、利己心を彼らの支配的な情熱とし、感情の力をすべて金銭欲の一点に集中させた思考力の形成が労働者にはない。そのかわりに労働者の情熱は、外国人に見られるように、はげしく強い。イングランドの国民性は、労働者のなかでは破壊されている」のですと。
ここで、それは蛇足的なことになりますが、後者の引用文章の中で主張されていることについてコメントしておきたいと思います。それは、「イングランドの国民性」に関するものです。それがもし、エンゲルスさんが主張しているブルジョアジー階級の、「感情の力をすべて金銭欲の一点に集中させ」るような利己心を意味するということであれば、それは大きな間違いです。
個人と社会との関係とは「つくりつくられる」関係であるというのが、個人と社会との関係性に関する科学である社会学の視点です。この視点から言えば、近代以降の市場経済社会に生きている限り、「金銭欲」と「利己心」は誰であっても、すなわちブルジョアジー階級の人たちだけでなく、労働者階級の人であっても、多かれ少なかれ、自分の生活意識の中に育ててしまうものなのです。エンゲルスさんにとっては残念なことでしょうが、労働者階級の人たちだからといってそのことから自由になることはできないのです。
すなわち、市場経済社会においては、誰もが、ある程度は、「金銭欲」と「利己心」によって他者と関わらざるを得ないことで、日常生活の中で絶えず市場経済社会の社会秩序を再生産しているものなのです。
ただ同時に社会学は、人間が人間である限り、困難を抱え、苦しんでいる人に出会うと「共感」し、何とかその人の力になりたいという社会的動物としての感情と意識を、これも誰もがもっていると捉えます。社会学はどのような場合、どのような人たちによって、どのような形でその社会的動物としての感情や意識にもとづく社会的行動が生成してくるのか、そしてそれらの社会的行動はどのような社会秩序を創造することにつながって行くのか、それを探究して行くことを課題としていると言えるでしょう。
そうした社会学の目でエンゲルスさんの議論を辿っていくと、それらの社会的行動をかなり狭く政治的なものに限定して論じようとしているように思えます。すなわち、エンゲルスさんは、それらの社会的行動を、市場経済社会の形成原理である経済的利益追求の自由と自由競争を止揚する政治革命の理論形成に収斂させて行くのです。
それは、労働者階級の人たちによるブルジョアジーに対する全面的な「社会戦争」なのです。エンゲルスさんは言います、
「イングランドの労働者はもはやイングランド人ではない。となりにいる有産者のような計算高い守銭奴ではない。彼らは十分に発達した感情をもち、生まれながらの北欧的なつめたさは、彼らの情熱を育て、彼らを支配することができた自由奔放さによって埋めあわせられている」。
「労働者には自分たちの生活状態全体に抵抗する以外には、人間性を働かせる場が一つとして残されていないのであってみれば、まさにこのような抵抗のなかで、労働者がもっとも愛すべき、もっとも高貴な、もっとも人間的な者の姿をとるにちがいないことは当然である」。
「労働者のあらゆる力、あらゆる活動がこの(『全面的な社会戦争』という)一点に向かっていること、人間にふさわしいそのほかの教養を身につけるという努力でさえもこの一点と直接的に結びついていることを、これから見るであろう。二、三の暴力行為や、さらには残忍な行為についてさえも、もちろん報告しなければならないであろう」等々というようにです。
これらのエンゲルスさんの議論に関して言えば、やはり最後の引用した文章の、最後の部分についてどのように捉えたらよいかという課題があるように思えます。さらに、「全面的な社会的戦争」の労働者階級側の原動力が「憎しみと怒り」という感情となっているのですが、やはりそのことをどのように捉えたらよいかという課題があるように思えます。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン