シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

空海(弘法大師)さんという存在

 これも私事になるのですが、宮沢さんへの関心は、自分の終活と関連したものです。年齢の違いを問わず、これだけ日本の多くの人たちから関心をもたれ、愛されている存在でありつづけているのは何かということに惹かれたのもしれません。

 宮沢さんがこれだけ有名になったのは、偶然の要因も数多くあったのでしょうが、有名になるには有名になるだけの確かな根拠もあるのではないかと思います。これまで出会ってきた宮沢さんの人生や作品を論じている諸著作の中には、なぜ宮沢さんがこれまで有名になってきたか、その要因を探究し、紹介しているものもありました。

 宮沢さんがこれほどまでに日本という社会のなかで有名になったのは、それらの研究書が明らかにしてきたように、偶然ではなく宮沢さんを有名にしようと努力してきた多くの人たちがいたこと、また宮沢さんの作品、とくに「雨ニモマケズ」の作品が戦前の戦争によって窮乏化が進んでいく生活を国民に耐えさせるために軍によって利用されてしまったこと、戦後も学校教育の中で普及されてきたことなど、さまざまな思惑で意図的に有名になるよう画策されてきたという側面も、確かにあったのでしょう。

 しかし、そうした形で社会的に広められてきた宮沢さんの生き様や作品が、多くの日本国民の心をとらえ、魅了してきたという側面もあったように感じます。とくに、宮沢さんの生き様にその側面があったように思います。

 ここ数年、個人の終活と新型コロナの流行のために人と交流するための旅ではなく、家族でお寺や神社をめぐる旅をつづけています。その中で、こんなにも多くの人たちが真剣な願い事をもってお寺や神社を訪ねているのかと驚く光景に度々出会ってきました。そのたびに、何が人をお寺や神社に向かわせるのか、考えさせられています。

 人には、例えば、家族など身近な人にさえ打ち明けられない苦悩や願い事を自分の身になって受け止めてくれ、耳を傾けてくれる他者を心から必要としているのではないかと感じるようになっています。

 また、私の場合は、宮沢さんに関心をもったことで、もし関心をもっていなければ決してそうしたことはなかったのではないかと考えられる気づきを経験することがあります。そのこともお寺や神社をめぐる旅の楽しみになっています。

 心に残っていることの一つに、個人的な願い事をするまえに、まず世界全体の平和や平穏、苦痛や苦悩からの自由、そして幸福や繁栄などをお願いするために参拝する場所というものがあるということを知ったということがあります。

 仏教が、星、天体、宇宙の世界論と深く関係していることを知ることができたことも大きな収穫です。その中で、北極星を神格化した妙見菩薩さんという菩薩さんが存在し、その菩薩をご本尊としている寺院が数多くあるということもはじめて知りました。北極星が宗教信仰のよりどころになっているのですね。人間にとって北極星が星座の中に占めている位置の大きさを感じています。

 また、空海弘法大師)さんの存在の大きさについてそれはなぜかを考えてみなければと思うようになってきたということもあります。それは宮沢さんがなぜこれほどまで日本の多くの人たちに愛されているのかという問いにもつながっていると感じるのです。

 そのように思うようになったキッカケは、さまざまなお寺をめぐっているなかで、それぞれのお寺のご本尊は違っていても、それにプラスして、空海弘法大師)さんの像や空海さんをまつっているお堂があるお寺が少なくなかったからです。そのことが、老若男女問わずだれからも慕われている宮沢さんへ親しみをもっている人たちが多いことを想起させるのです。

 空海弘法大師)さんと宮沢さんの生き様に共通するもの、それは、人の痛みや苦しみに、「寄り添い、見守る」ことで支え、求められたら適切な助言をすることで、心からそれらの痛みや苦しみから救ってあげたいという思いが、人々が自ずと感じ人々に自ずと伝わるような生き方をしてきたということではないかと考えます。それが現在のひとつの仮説です。

 「同行二人」、「デクノボー」ということばにその仮説の有効性・可能性を感じます。空海弘法大師)さんと宮沢さんは、世知辛いこの世の中で分け隔てなく、それまで全く縁がなくても必要になったときに、だれにとっても心のよりどころとなれる存在なのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

地域づくりが生みだす生活世界

 前回宮沢さんの自身の生涯を通しての仏国土建設に関する主張とそのための自身の活動の試みを、芸術論的人生論および「自分たちの手で創る」共に生きる生活世界論と特徴づけました。では現代社会における社会づくりの動きの中で見ると、そうした宮沢さんの仏国土建設論の特徴と共通する特徴を示している社会づくりの動きとしてはどのような動きが存在しているのでしょうか。社会学のフィールドワークの目で現代社会の動きを見ようとするとき、その問いこそ社会学が探究していかなければならない問いであると感じます。

 では、すべての人が芸術論的人生をおくることができるような、「自分たちの手で創る」共に生きる生活世界が実現しているような社会とはどのような社会なのでしょうか。そうした社会づくりの動きをフィールドワークするためにも、再度仏国土建設論を踏まえた宮沢さんの社会づくりに関するメッセージとはどのようなものであったのかについて確認しておきたいと思います。西田さんによれば、それは次のようなメッセージでした。

 すなわち、宮沢さんのそのメッセージとは、「この世には役立たずの人間はいません」。人はそれぞれ自分の活躍できるもち場があり、「それぞれ自分にあった役割・役目があります」ということなのです。同じく西田さんによれば、そのそれぞれ自分にあった役割・役目を果たしていくことで、人は、「『個々の特性を発揮』して、星たちのように、一人ひとりが自分らしく輝きながら、星が星座をつくり、北極星を中心に空をめぐるように、人との絆を大切に連帯感を持ちながら、社会を生きて行く」ことができるようになるのです。

 この宮沢さんのメッセージを受け取り、現代社会における社会づくりの動きをみると、持続可能な地域づくりの動きの中に、すべての人が「一人ひとりが自分らしく輝きながら、北極星を中心に空をめぐるよう」な連帯感のある社会づくりとなっている事例があるように感じます。

 これまでの地域づくりのフィールドワークの中で感じてきたことと西田さんが紹介してくれている宮沢さんのメッセージとがおおよそ重なっていることに驚いています。これまでさまざまな地域づくりのフィールドワークをさせていただいてきましたが、それらの地域づくりが創りあげている世界とは以下のようなものでした。

 まず地域づくりに参加されているひとり一人の自主性と主体性が大事にされ、尊重されています。また参加しているひとり一人が活躍し、輝くことのできる場が存在しています。もし、誰か、自分が活躍し、輝くことのできる場が見つからない場合は、仲間たちが寄り添い、その人が自分の思いで見つかるように支えつづけてくれるのです。

 ではそうした連帯感を生みだす中心となっている北極星とは、これまでフィールドワークをしてきた地域づくりにおいてはどのようなものだったのでしょうか。それは個人的な感想かもしれませんが、自分たちの地域を元気にしたい、すべての地域の人たちが自分の活躍と居場所をもち生き生きと生活していることに喜びを感じるという思いが共有化され、地域の空気・文化となって存在しているというものだったのではないかと感じてきました。

 ところで、そしてそれは西田さんも指摘していないのですが、宮沢さんは星座の中心に位置している北極星をどのようなものとして捉えていたのでしょうか。そのことが気にかかります。少なくとも、宮沢さんは、北極星をオーケストラにおける優秀な指揮者とか、地域づくりにおける強力な指導者またはリーダーのような、他の星を従え、調和と秩序を維持する権威者または一段と高みにある存在というようには考えてはいなかったのではないかと思います。

 宮沢さんは、これからの自分の生き方について試行錯誤の模索を書き記していたいわゆる「雨ニモマケズ手帳」の中でこれからの生き方として「日課を定め/法を先とし……」との思いを綴っていました。

 そのことを踏まえると、宮沢さんにとっての北極星とは、宇宙全体の秩序を構成している宇宙意思である「法」だったのではないかと考えます。そしてその「法」とは、支配者というのではなく、また指揮者または指導者というのでもなく、(温かいまなざしで)すべての存在に寄り添い、見守る支持者(支える者)という存在と考えていたように感じます。

 宮沢さん自身、「ポラーノの広場」におけるファゼーロさんたちとの関係を、ファゼーロさんたちの産業組合づくりの支持者、すなわちファゼーロさんたちの産業組合づくりの試みを暖かく、見守り、寄り添い、求められれば助言を惜しまない支持者と位置づけていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を変える(4)

 よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を動かし、変えていく原動力となるのではないかという視点で見ると、これまで取り上げてきたエンゲルスさん、ロバート・オウェンさん、そして宮沢さんの主張や試みはどのように位置づけることができるでしょうか。

 エンゲルさんのそれは、既成の政治支配体制の変革論、ロバート・オウェンさんのそれは、博愛と愛にもとづく社会の改良論、そして宮沢さんのそれは、芸術論的人生論および「自分たちの手で創る」共に生きる生活世界論と性格づけすることができるのではないかと思います。

 私たちが生きている現代社会も、また、支配と抑圧、選別・格差・差別と社会的排除という社会構造が、それまでの時代とは異なった形で覆っている社会となっているのではないでしょうか。そして、その中で生活し、暮らしている多くの人たちが生きづらさを抱えなければならない状況となっているのではないでしょうか。

 そうした社会の社会構造を少しでも動かし、変えていくには、社会学的目でみると、エンゲルスさん、ロバート・オウェンさん、そして宮沢さんの主張と試みはお互いに相互排除的ではなく、相互支持的に統合されることが必要なのではないかと考えます。実は宮沢さんは何とかその統合を図りたいと模索し、苦闘していたと感じるのです。

 そして、その模索と苦闘の結晶こそ、芸術論的人生論および西田さんが言う「オールスターキャスト」の社会づくり論だったのではないかと思います。そこで、ここでは以前紹介した考察と重なるのですが、あらためてその内容について、西田さんの議論に依拠して確認しておきたいと思います。

 西田さんは、宮沢さんの「マリヴロンと少女」という作品の読み方を紹介する中で、作品に出てくる「世界で名高い声楽家」が「だれからも振り向かれないと」嘆く「貧しい少女」に対して諭す次のようなことばを紹介しています。それは、

 「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向こうの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしようが、わたくしはそれを見るのです。おなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です」というものです。

 すなわち、この作品を書いた宮沢さんによれば、人という存在は、とくに自分自身の人生に関しては、その人の個性と創造性を結晶化させた道を歩む芸術家であり、すべての人、ひとり一人が天才なのです。ただ多くの人たちがそのことに気づいていないだけなのです。

 しかもより宮沢さんにとって重要な問題だったのは、だからこそ、天才的存在としての個々人が一緒になると、お互いの個性と創造性を根拠に互いにぶつかり合い、競い合い、争う関係性に容易に陥ってしまうことだったのです。

 どうしたらお互いの個性と創造性を基礎にお互いに補い合い、協力し、共に、一人だけでは実現することのできない高みを見ることのできる生活世界とその生活世界によって生まれる社会を創り出すことができるのか、それが宮沢さんの課題だったのです。すなわち、宮沢さんは、自身の作品「業の花びら」の中で、「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」いうことを望んだのです。

 そしてこの課題に応えようとして生まれた作品こそ、「ポラーノの広場」であったのではないでしょうか。自分たちがもっているそれぞれの技術と特性を活かして自分たちの手で自分たちの生活を実現する。さらに、その生活の中に共に楽しみ、喜びを共有し、お互いに元気づけ合うことのできる生活空間をやはり自分たちの手で創造する。

そうした世界は、音楽活動として見た場合は、オーケストラによる演奏活動の世界のようです。個々の楽器活動だけでは得られない、異なった楽器演奏奏者たちが協同することはじめて創造することのできる音楽世界を宮沢さんはイメージしたのではないでしょうか。

 一般的には、オーケストラによる演奏活動には、その効果を最大限に高めるのには、個々の楽器の演奏を協調させていく役割を担う、ある意味指導的な指揮者の存在が不可欠と考えられるのかもしれません。

 しかし、宮沢さんは、あえてそうではなく、すなわち優秀な指揮者によってではなく、ファゼーロさんたちの仲間同士による自分たち自身の手による協調性の創造を大切なものと位置づけようとしていたと感じます。

 その作品の中で宮沢さん自身はあくまでそうしたファゼーロさんたちの試みを見守り、求められれば相談に応じるなど惜しみなく協力する、応援団の役割に徹しようとしていたのではないでしょうか。

 なぜならば、宮沢さんがいう「明るい世界」は、誰かによって命令され、指導されることによって生まれるのではなく、天才同士が自分たちの手によって創造し、運営していかなければならないと考えたからからだと考えます。

 いや、さらに言えば、自分たちの手によってしか、「明るい世界」は実現しえないと宮沢さんは言いたかったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を変える(3)

 ここまでよりよく生きたいという社会思潮が大きく社会を動かし、変えてきた歴史的出来事に関して、経済的利益を追求する自由と「命あっての物種」という何としても生きつづけることへの社会的意欲の高まりという二つの例を参照してきました。

 では、現代社会における社会を動かし、大きく変えていくことができると予想できるようなよりよく生きたいという社会思潮にはどのようなものがあるのでしょうか。地域づくりの社会学の目で見ると、それは宮沢さんが晩年にたどり着いた生き方と重なるのですが、身近の人たちと共に楽しく、元気に生きるという生き方というものではないかと感じます。

 今地域づくりのトレンドは、自分一人だけがもうけ、喜び、楽しんで、元気になるというのではなく、地域の人たちと共に、一緒になってもうけ、喜び、楽しむことで、元気になるという社会思潮なのです。さらにそれは進んでいて、地域を元気にし、喜びや楽しみを共有化することで、自分たちの生活を自分たちの手で豊かにする、そして自分も元気になっていきたいというようになってきていると思います。

 ちなみに宮沢さんが晩年にたどり着いた生き方とは、いわゆる『雨ニモマケズ手帳』の44~46頁にある次の文章です。それは、それまでの自分の生き方を反省し、これからの自分の生き方を自分自身に言い聞かせているものなのでしょう。その文章とは、

 「厳に

   日課を定め

   法を先とし

 

    父母を次とし

    近縁を三とし

    〈社会〉農村を

    最后の目標として

 

   只 猛進せよ」

 というものです。

 読んで伝わってくるように宮沢さんのこの自分の生き方に関する決意は、まだまだ非常に硬さが感じられるものですが、現代の上記の地域づくりに関する社会思潮はもっとリラックス感があるものではないかと思います。片意地張りながら生きるのではなく、自分の気持ちに素直に応じて身近な人たちと共に生きようとし、結果として地域づくりにつながるというのが現代の地域づくりに関する社会思潮なのではないでしょうか。そして、リラックスした生き方であるというところによりよい生き方となっているのではないかと感じます。

 またそうしたリラックスした生き方は、「ポラーノの広場」におけるファゼーロさんたちの産業組合づくりの精神に通じるものがあるように感じます。そのことは、ファゼーロさんの仲間たち対する「ポラーノの広場」づくりについての次のような呼びかけに示されているのではないでしょうか。ファゼーロさんは仲間たちに呼びかけます、

「さうだあんな卑怯な、みっともないわざとじぶんをごまかすやうなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いやうなさういふポラーノの広場をぼくらみんなでこさえやう。」とです。

ポラーノの広場」の中のこの部分に関する解釈として以前参照した西田良子さんの解釈が大いに参考になります。繰り返しとなるのですが、もう一度西田さんの解釈を示しておきたいと思います。西田さんは言います、

「『ポラーノの広場』、つまり、理想の農村とは、他人がつくったものを探すのではなく、苦しく貧しい農村を自分たちの手で理想の農村に創りあげるもので、それが本当の『ポラーノの広場』だ……。『自分たちの手で創ろう』それが賢治が非常に力説するところだった」のですと。

 ではファゼーロさんたちの産業組合づくりの試みや現代の地域づくりに見られる身近な人たちと共に生きる生き方が示している社会変革における意義とは何なのでしょうか。一言で言えば、それは、より多くの人たちが社会づくりとその運営の主人公となるための社会的経験の積み重ね、蓄積であるというものではないかと考えます。そしてそのことこそ、現在の社会主義国と呼ばれている国々において歴史的・社会的に欠けていたものだったのではないのかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を変える(2)

 よりよく生きようとする人々の思いや意欲の高まりが社会を動かし、変えていくのではないか、そしてロバート・オウェンさんや宮沢さんたちの仕事は、そうした思いや意欲を具体的な社会づくりの思想にまで結晶化させようとした貴重な仕事だったのではないかと考えることができるように思います。

 そうした問題意識をもっていたのですが、宮城県の書店で塚本学さんの『生きることの近世史 人命環境の歴史から』(平凡社、2022年)という文庫本に出会うことができました。塚本さんによれば、これまで歴史と言えば、天下国家の歴史とされてきました。しかし、塚本さんは、これから歴史を見る目として、庶民の日常生活の些事とみなされるような出来事に注目していくことが肝要になるのではないかと問題提起します。

 なぜならば、それらの出来事こそ、社会を大きく動かしていくための底流だからなのだと言います。すなわち、それらの出来事こそ、歴史を揺り動かすマントルなのです。塚本さんは言います、

 庶民の「日常些事の歴史は、当事者にとっての些事ではなく、また当事者とその周辺にしか意味をもたない歴史でもない。天下国家の歴史から些事とみなされるような、無名の民の日々の生こそが、人類の歴史の内容であったはず」ですと。

 そうした視点で日本の歴史を見てみると、とくに人命にかかわる歴史ということからは、十七、八世紀に大きな転機があったのではないかと塚本さんは言います。塚本さんの人命にかかわる歴史は、社会学的視点で見ると、人命の社会生活文化環境史と呼べる歴史観ではないかと思います。

 その塚本さんの歴史観によれば、十六世紀の日本社会は人命に関しては非常に軽く見る空気に覆われていたと言います。すなわち、塚本さんによれば、当時の日本社会では、「人殺しは普通のこと」だったのです。

 塚本さんはポルトガルイエズス会宣教師ルイス・フロイスさんの証言をあげてそのことを裏付けています。すなわち、フロイスさんいわく、「われわれの間では人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や牝鶏または犬を殺すことは恐ろしいことではない。日本人は動物を殺すのを見ると仰天するが、人殺しは普通のことである」のですと。

 十六世紀時代の日本社会における人殺しが普通になっていたことは、塚本さんによれば、まず「公権力による処刑の多さ」に表れています。また奉公人が「主人に殺される不安」にさらされていたことも当時の人命に関する生活環境だったと言います。すなわち、「家の下人や家族員が、主人の意に反する行動をとったとき、主人が処刑するのを当然ともしていた」社会習慣に表れていました。武家の奉公人や農村社会における親方への完全従属を強いられていた農家奉公人にそうした不安が蔓延していたのです。

 ここで塚本さんは面白い問題を提起します。それは、当時そうした人殺しが普通の社会であったにもかかわらず、十七世紀における顕著な人口増大はなぜ起きたのかという問題です。

 塚本さんによれば、「少なくとも十七世紀は、列島住民の人口が大きな増加をみせた時期であった」のです。塚本さんはその人口増加の様子を、「爆発的増加」、「異常なまでに高い増加率」とまで表現しています。人殺しが普通になっている社会であれば人口減少が起こっていてもおかしくないのに、なぜ十七世紀に「爆発的」人口増加があったのでしょうか。

 一般的な社会科学的な視点であれば、人口増加の背景を説明する仮説は社会的生産力の増大要因となるのではないかと思います。しかし、塚本さんが重視する仮説は、人々の生きるということに関する意欲と選択肢の増大という要因です。

 そのことについての詳しい議論はぜひ塚本さんの著書を参照していただければと思います(その中には、生き伸びるための情報収集の重要性に関する議論も含まれています。)が、ここでは農村社会における親方百姓と親方百姓に抱えられた奉公人との人口増加の背景となっている関係変化に関する塚本さんの叙述を参照しておくだけにしておきたいと思います。

 親方百姓とそれに抱えられた従属人との関係は、庇護を期待できる対価として「親方百姓の恣意」によって命を奪われる不安があるものであったのですが、十七世紀に親方百姓の庇護への情誼が薄れてくる中で、「庇護をあてにせずに生きるという危険を冒しての生き方」を選択する従属者が増大し、親方百姓の完全従属を求める生殺与奪の権と対峙する状況が生まれたのだと塚本さんは言います。そうした従属者の動きは、それらの者の家族数の増加となって十七世紀の人口増加の重要な一因となっていったのです。

 塚本さんは、それらの人口増加を、「自立した生」を求めることによる人口増加と把握しています。当時同じ動きが都市社会でも興っていたと言います。例えば、武家奉公人の間でも「命あっての物種」という風潮が当たり前となり、安易に人の命を奪うような処罰をする主人はなかなか奉公人を得られなくなっていったのです。

 しかも、さらに、そうした人命に関する風潮は、当時の江戸幕府の人命に関する政治と政策にも大きな変化をもたらすような影響を与えていったのです。塚本さんはその例として、将軍徳川綱吉さんの「生類憐みの令」を取り上げています。

 綱吉さんのその政策は犬の命よりも人の命を軽んじるものとして悪政糾弾の対象となってきたという面もあるのですが、塚本さんによれば、それは、動物たちにたいする殺傷だけでなく、人の人にたいする殺傷が横行する殺伐とした当時の空気を少しでも無くしていこうとする思いがあったものであると捉えなければならないのです。

 すなわち、「生類憐みの時代は世の必要からうまれたもの」であり、その政策の「背後にあった道徳鼓舞も、世の中のうごきのなかで用意されていた」のです。

 「親方百姓の庇護と支配を離れた小規模な農民にとっても馬牛の飼育は容易ではなかったから、老病によって労働能力を失った馬牛はしばしば捨てられることがあった」のですが、それは人間社会の風潮でもあったのです。その風潮に対して、「生類憐みの令のなかで、捨て子や老病者の遺棄をきびしく禁じる趣旨は強調されつづけた孝道徳の鼓舞や養子手続きの厳格な励行、また親族の範囲と間柄の厚薄規定を含め服忌令の制定・改訂等」があったことに注意が向けられるべきなのです。

 以上ごく簡単な紹介にすぎませんが、個人的には、塚本さんの「些事とみなされるような、無名の民の日々の生こそが、人類の歴史の内容」であるという主張は、フィールドワークをする社会学者が常に旨としておかなければならないものではないかとの思いを強くしました。

 なるほど、社会変化の底流には、人々のよりよく生きたいという思いの集積があるのだとあらためて強く感じます。ただよりよく生きるとはどのような内容なのか、時代と社会によって大きく異なってくるのでしょう。では現代社会におけるよりよく生きるという思いの新たな集積、そしてそれがより多くの人たちが社会づくりと運営の主人公となるような社会変化につながる新たな集積にはどのようなものがあるのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を変える(1)

 ここまでエンゲルスさんの『イギリスの労働者階級の状態』を読みながら、思いつくまま、アトランダムに、宮沢さんの「ポラーノ広場」という作品を社会づくりとの関りでどのように位置づけたらよいかに関する考察をおこなってきました。そして、前回、宮沢さんは、「ポラーノの広場」という作品の中で、どうしたら天才たちがお互いに争い合うのではなく、協力し、協働しながら自分たちの生活を創りあげていく社会づくりができるのかという自分自身に対して提起した問いにファゼーロさんたちの産業組合づくりの試みで答えようとしたのではないかということを暗に示す考察を紹介してみました。

 宮沢さん自身、1924年10月5日付けの「業の花びら」(下書稿)〔『【新】校本宮澤賢治全集第三巻』筑摩書房〕という作品の中で次のような問いをたてていました。すなわち、「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」とです。ではどうしたらそうした世界は実現するのでしょうか。

 実は社会諸科学の共通するテーマとは、この宮沢さんがたてた問いをどのように解いていくのかというものではなかったかと思います。すべての生き物にはよりよく生き、そして自分の幸せを実現しようとする本性が存在している。何と言っても「一寸の虫にも五分の魂」が存在しているのです。その意味では、人間であれば誰でもが「天才」的存在なのではないでしょうか。よりよく生き、幸せになりたいという思いはことのほか強い生物、それが人間という存在なのではないかと感じます。

 ただ自分はよりよく生き、幸せになりたいという思いが強ければ強いほど、実はまた、それが同じ他者の思いと衝突し、ときには闘争や戦争にまで発展していくようになってしまうことがあるのも事実なのではないでしょうか。とくに、経済的利害、個人の名誉や政治的な権力をめぐっての利害関係にあるときには、容易にそうした争いの状況が生じてくると言えます。

 このようなよりよく生き、そして幸せになりたいという思いをめぐってのジレンマを経済学の視点で解こうとしたのが、アダム・スミスさんだったのではないかと考えます。スミスさんは市場という経済的な社会システムこそ宮沢さんが提起した問いを解くことを可能にすると推測しました。

 なぜならば、市場という社会システムとは、他の動物には見られない「取引し、交易し、交換するという」人間の社会的動物としての「一般的性癖」に根ざしている社会システムだからです。この「性癖」のおかげで人間は、市場という社会システムを建設することで、個々人の間にある才能・能力の違いを一つの共同財産にたくわえ、それぞれが自分の生活改善のために役立てることができるようになったのです。

 ただこの市場という社会システムは温かで精神的も穏やかで喜びや幸せを感じることのできる人間関係の形成のためには大きな弱点があるのです。それは、人間関係における感情的な交流をそれこそ文字通り節約し、最終的には全く消滅させてしまうシステムでもあるのです。なぜならば、このシステムを作動させている人間関係原理とは、感情ではなく経済的な利害得失の冷徹な損得勘定だからです。

 ではなぜ経済的な利害得失の冷徹な損得勘定にもとづく人間関係だけでは温かで精神的にも穏やかで喜びや幸せを感じることができないのでしょうか。それは、やはりアダム・スミスさんが言うそうした人間関係を築くための重要な人間感情のコミュニケーション原理である共感を欠いてしまっている人間関係だからなのです。

 共感的な人間関係を築いていくには、まず何よりも相手の運命に関心をもつことが不可欠の要件になります。その上で、さらに相手が今精神的にどのような状態であるか理解しようとする努力が求められるのです。すなわち、相手の顔の表情や話し方、そして振る舞いの仕方などなどから、相手が今どのような感情状態にあるのか、そしてそれはどのような原因によってそのような感情状態になっているかに関して、相手の立場に立って自分であればそのような立場におかれたらどのように感じるかについて想像するという努力が求められるのです。そうしたお互いの努力があってはじめて共感という感情コミュニケーションが生まれるのです。

 アダム・スミスさんはそうした努力によってようやく得られることになる共感を相互共感の喜びと呼びました。そして、日常生活の中でともに生活している人たち同士がことあるごとにお互いの喜怒哀楽を共にし、共感しあい、相互共感の喜びを積み重ねる経験を通して、人間ははじめて自分の感情の豊かさを育むことができるのです。そして豊かな人間的感情をもつことができた人間同士のあいだでこそ、お互い真に温かで精神的にも穏やかで喜びや幸せを感じることのできる人間関係を育むことができるのです。

 しかし、経済的な利害得失の冷徹な損得勘定にもとづく人間関係の影響が強くなればなるほど、そうした共感的な人間関係構築の生活空間が失われていくことになるのです。いやむしろ経済的利害関係をめぐる醜く、冷酷な対立や争いが生まれ、増大していくことになっていくのかもしれません。なぜならば常に経済的な利害得失の冷徹な損得勘定による他者との合意が得られるとは限らないだけでなく、むしろ経済的な利害得失に関する不一致から起こる人間関係の溝を深めていくことが多々生じるからです。

 しかし、それにも関わらず、歴史的に見ると、経済的利益追求の自由なそのための地域間の移動およびそのことによる経済的交換や取引、そして交易の自由は、人がよりよく生きていくための社会的条件であると考えられ、その条件を求めての社会行動の噴出がそれまでの社会を大きく変えていったのです。いわゆる社会諸科学の分野で言うところの近代化という社会変動がそれにあたるのです。

 ところが現在では、その近代化は人間がよりよく生きるためのまさしく反対物の社会的条件に転化してしまっていると言ってよいのかもしれません。なぜならば、近代化が極限まで深化した現代という時代は、また人間の共感的関係性を、また極限まで節約し、縮小化してしまっていると考えられるからです。

 そのために、現在では、私たちが生きる世界が、多くの生きづらさや争いごと、そして醜い行動・行為が頻発する世界と化してしまっているのではないでしょうか。そうした現代社会の中、それまでの近代化の成果を踏まえた上で、宮沢さんが提起した問いに答え得る世界を創っていくにはどのような道を切り開いていけばよいか、ということがつよく問われているのではないかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「オールスターキャスト」ということば

 「オールスターキャスト」ということばは、私が宮城県図書館で出会った『宮澤賢治読者論』の著者西田良子さんが注目したことばです。西田さんによれば、このことばこそ宮沢さんの最後のメッセージであると言えるものなのです。西田さんは言います、

 「賢治の最後のメッセージは、法華経の中の『悉皆成仏』のこころに目覚め、『ひのきとひげなし』(最終形)にある『オールスターキャスト』という言葉が示すように、社会の中で行うべき仕事やふさわしい役目を果たすことであったとすれば、最晩年の賢治を理解するには、『デクノボー』以上に『オールスターキャスト』という言葉に注目すべきではないだろうか」とです。

 そのことは社会学にとってもとても大切なメッセージだと考えますので、そのメッセージをさらに敷衍しておきたいと思います。西田さんによれば、宮沢さんのそのメッセージに込めた思いとは、「この世には役立たずの人間はいません」。人はそれぞれ自分の活躍できるもち場があり、「それぞれ自分にあった役割・役目があります」ということなのです。

 ここで引用した「 」の中の文章は、宮沢さんの「気のいい火山弾」という作品の中の文章です。同じく西田さんによれば、その引用文にあるように、「晩年の賢治は『高慢のいさめ』よりも、『個々の特性を発揮』して、星たちのように、一人ひとりが自分らしく輝きながら、星が正座をつくり、北極星を中心に空をめぐるように、人との絆を大切に連帯感を持ちながら、社会を生きて行くことを主張して」いたのです。

 この西田さんの宮沢さんが「オールスターキャスト」ということばに込めた思いに関する理解は、まさしく社会学が研究対象の一つとしている地域づくりの大切な思想を示していると言ってもよいように思います。またまたあらためて勉強になりました。しかも、西田さんは、この思想が貫かれている作品の一つが「ポラーノの広場」だと言います。

 しかも、「ポラーノの広場」には、理想の社会は自分たち自身の手によって創造していかなければならないという宮沢さんの考え方が示されている作品であると、西田さんは指摘しています。

 すなわち、西田さんによれば、「ポラーノの広場」の作品の中で、「賢治と思わしき登場人物レオーノ・キューストが出てきて、子どもたちに、『ポラーノの広場』、つまり、理想の農村とは、他人がつくったものを探すのではなく、苦しく貧しい農村を自分たちの手で理想の農村に創りあげるもので、それが本当の『ポラーノの広場』だということを教える。『自分たちの手で創ろう』それが賢治が非常に力説するところだった」のです。

 さらに西田さんは、「ポラーノの広場」にはウィリアム・モリスさんの思想から学んだ「生活の芸術化」という思想が反映されていると言います。すなわち、「『生活の芸術化』とは、嫌々ではなく、生き生きと喜びをもって仕事をすることを大切にし、自分の個性をその仕事のなかに発揮することによって前よりも良いものを、より良いものへと発展させていく心構えをもって暮らせば、生活は立派な芸術と同じレベルになるのだとする考え」なのですと。

 「ポラーノの広場」におけるファゼーロさんたちの産業組合づくりの試みとはまさしくそうした労働と生活をつくりだすための試みであったと言えるでしょう。産業組合でなくても、芸術化した労働を創りだすことができるというメッセージも「ポラーノの広場」には込められているようです。

 西田さんはその例としてキューストさんがセンダードの床屋さんにいったときの描写を取り上げています。すなわち、「キューストが床屋さんに行くと、その床屋さんでは頭を刈ってくれる人はみな、『アーティスト』とよばれ、壁に名前がちゃんと書かれている」というようにです。

 さらに、「生活の芸術化」によって仕事をしている人はみな宮沢さんにとって天才と呼べる人たちなのです。なぜならば、これも西田さんによれば、「賢治は、こういう仕事をする人は、仕事に喜びと独創性と個性とクリエイト、創造をもっている」ことをすばらしいと見ていたからなのです。

 こうして西田さんの「オールスターキャスト」ということばに関する議論を共感しながら読み進めてくると、宮沢さんが思描いていた社会の状態とは、そうした天才たちが共同して自分たちの労働と生活を築いていくというようなものではなかったかと感じます。そしてそのことは社会学が探究している個人と社会との関係を示唆しているものと感じます。

 西田さんも次のように論じていました。すなわち、「オールスターキャスト」ということばのそうした「『個』と『全』の関係は、現実社会では『個人』と『社会』の関係となる。彼はひとりひとりがそれぞれの個性を発揮しながらお互いの連帯感を持ち、社会の中で自分にふさわしい役目をになっていくべきである」と宮沢さんは考えていたのですと。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン