シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人生探しへの旅立ちと八重山地方との出会い

 小村さんと八重山地方との出会いの端緒となったのは取引先からの仕事の依頼であったそうです。その仕事とはリゾート開発にかかわるものでした。場所は沖縄本島でした。小村さんが、石垣島でマンゴー農園を経営するようになるまでの歴史に関しては、2009年7月に発行された『誰も知らなかった石垣島物語』に詳しく紹介されています。「石垣島人情物語」の「その3」として取り上げられたもので、取材し記事を書かれたのは永戸早苗さんです。より詳しく知りたい方は、ぜひこの記事を参照していただければと思います。ここでもこの記事を参照させていただき、記述を進めて行きたいと思います。

 沖縄での仕事の依頼があったとき、小村さんは、「家族や親戚の喪失感から立ち直っておらず」、「何かまったく違う仕事をして、ぜんぜん違う生き方をしようか」と考えていたときだったそうです。そうして沖縄本島で働いていたとき、知人から竹富島で働かないかとの誘いの話があったのです。新しい人生を生きるためのチャンスと考え、竹富島で働くことにしたといいます。労働の内容は海老養殖の仕事でした。

 竹富島の主要産業は観光ですが、それ以外では肉牛の飼育と車海老の養殖の会社があり重要な産業となっています。小村さんはその海老養殖の会社で働くことになったのです。海老養殖の仕事はかなりの重労働であると聞いています。同時に当時、竹富島の海老養殖事業はかなり厳しい状況に直面していました。出荷価格が急速に低くなっていたのです。それまでキロ2万円位で取引されていたのが、1997年ごろには、キロ6千円以下にまで下がってしまったといいます。それまで働いていた従業員もほとんどが去ってしまっていたのです。

 こうした厳しい状況の中で小村さんは竹富島で労働することになったのですが、その後の経過に関して、先述した記事は次のように伝えていました。

 小村さんは、「7年近くも竹富町で海老の養殖の仕事をして毎日を過ごした。最初は空虚な毎日だったが、誰も小村さんのことを知っている人がいないことがかえって救いとなった。また竹富島の自然や、温かい町の人たちとの小さな触れ合いの積み重ねに、孤独に打ちのめされ、生きる目的を失っていた小村さんの心は少しずつ癒されていった」のですと。

 竹富島は今でも伝統的な年中行事が多い社会です。しかもその担い手として島外から来て竹富島で生活している人たちが重要な役割を果たしているのですが、そうした意味で島民の一人として年中行事に参加することで、島民の人たちとの触れ合いや交流があったのではないでしょうか。またやはり島外出身で竹富島で労働している仲間たちとの触れ合いや交流などもあったでしょう。

 私が小村さんを知ったのは、やはり竹富島の海老養殖会社で働き、後に竹富島に移住・定住した方から紹介していただいたからです。さらにさまざまな形で竹富島に観光に来た人たちとも触れ合いなどもあったのではと思います。人との温かい触れ合いや交流が生き生きと生きていくために大きな力となるのだなと、小村さんの話を伺いながら、あらためて感じていました。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン