シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

マンゴー農園設立物語(1)

 新たな人生へ向けて再出発しようという前向きな気持ちになれたのは、竹富島で生活する中で、現在の奥さんに出会ったことだと小村さんは話してくれました。そのことは、「石垣島人情物語」には次のように紹介されています。

 「故郷を離れ、竹富島の民宿で働いていた彼女の屈託のない笑顔に、やっと人間らしい感覚を取り戻すことができるようになった小村さんは、もう一度新しい人生を踏みだそうという気持ちになってきた自分に気がついた」のですと。喜びや悲しみをともにするパートナーの存在が新たな人生を歩みだすための大きな力となるのだなと小村さんの例によっても確認することができるのではないでしょうか。

 ちなみに竹富島では竹富島で出会ったことで結婚し、家族を形成する人たちが少なくありません。小村さんご夫婦が竹富島を出て独立し、マンゴー農園を始めたころの八重山毎日新聞の新年特集は、竹富島のUターン・Iターンの若者夫婦の「ベビーブームラッシュ」に関する記事(2005年1月1日付)でした。この記事では、6組の夫婦と4人の赤ちゃんが紹介されていました。その6組の夫婦のうち、2組の夫婦が海老養殖場で働いている方が夫でした。4組は観光関係で働いている方が関係していました。こうして竹富島で出会い、結婚し、家族を形成することで、八重山地方に移住・定住し、地域の一員として活躍される例も少なくないのです。小村さんご夫婦も結婚を契機としてそうした歩みをされていくことになったのです。

 まず小村さんご夫婦は竹富島を出て石垣島で生活を始めまました。その中で、石垣島での生活が1年位たったときに、「キビ畑を買わないか」との話を知り合いの方から持ちかけられたそうです。奥さんのご両親に購入資金を借りることができたことで、キビ農家となることができたのです。そしてそのことで、集落の地元の農家の方々との豊かな交流をもつことができるようになっていったといいます。

 それは、農家経営初心者の二人だったことで、「集落の農家の方々からやり方を教わったり、農機具を貸してもらったり、倉庫を貸してもらったりと、何から何までお世話に」(「石垣島人情物語」)なるという交流です。しかしそうした交流を通じて、二人は地域の人たちから認められる存在になっていったのです。「石垣島人情物語」によれば、「最初は『ナイチャーに何ができる』といっていた島人も認めてくれるようになっていた」のです。

 こうして地域の人たちから認められるようになったことで、マンゴー農園を誰かに譲りたいと思っている人がいるとことを、その農園主の知人から小村さんご夫婦にもたらされます。たまたま奥さんがその農園とは別の農園でしたが、マンゴー農園でアルバイトをしていた経験があり、できれば経営してみたいと考えていたそうです。そこでその農園主の方に自分たちに譲ってほしいと交渉しに行ったのです。

 「しかし、その地主さんは噂には聞いていたが、まさに無類のナイチャー(内地の人)嫌い。最初に行った時には、話も聞いてもらえず、門前払いという手厳しい状態だった」(「石垣島人情物語」)のです。しかし、足しげく通い、何とか譲ってもらいたいとの交渉を重ね、ご夫婦のマンゴー農園経営へのひた向きな思いを伝えるなかで、一括の現金払いであれば譲ってもよいとの返事をもらえたのです。しかし、小村さんご夫婦には、当時マンゴー農園の購入代金を一括で支払うだけの大金を用意できる状況ではありませんでした。

 「銀行や商工会に何度も通って融資を願い出たものの、担保もなければ実績もない小村さんに対して金融機関は冷たかった。とにかく農業の実績がないのでダメの一点張り」(「石垣島人情物語」)だったというのです。小村さんご夫婦には、マンゴー農園経営実現の道の途上で幾多のハードルが立ちはだかっていくのですが、このマンゴー農園購入のための資金問題がその口火のハードルだったのでした。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン