シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

防災力のあるコミュニティづくりへの挑戦

 

 幾多の困難と試練を乗り越えてマンゴー農園を設立し、経営を軌道に乗せることができるようになったことを、小村さんは次のように振り返っていました。

 「自分たちは特別なことは何もしていないんです。ただ、いろんな人たちに助けられながら、自分たちのできることをただ一所懸命やっているだけなんです」(「石垣島人情物語」)と。

 「できることを一所懸命やる」姿勢で、小村さんはご夫婦が生活をされている集落とはどのような関係性を築いていっていたのでしょうか。社会学的にはどうしても気になる点です。

 小村さんは、阪神・淡路の大震災の自己の苦く、悲しい経験を社会に生かすことを願っていました。ただ自分たちの生活を確立することに追われ、その道を探ることができていなっかったといいます。「生活が落ち着いた2006年4月」に石垣市消防団に入団を申し込みました。そのときの小村さんの気持ちは、「災害時は消防隊員だけではどうしようもない。知識や備えがあれば一つでも命がたすかる」(琉球新報記事)のではないかというものでした。

 しかし、このとき、小村さんの願いはかないませんでした。石垣市消防団の入団資格が45歳未満だったのです。小村さんの年齢はそのときその規定を1か月超えていました。入団の申し込みは受け入れられませんでした。小村さんは、このときもそれで諦めことはありません。まず身近なところから、すなわち居住集落を基礎とした災害に備える地域づくりに力を注いで行ったのです。

 「消火器具の講習会や火災報知機の共同購入、一人暮らしの高齢者や子どもへの防犯ブザー配布を行い、地域の防災力を付けて」(琉球新報記事)行きました。そして、2010年3月に、小村さんが住む栄集落に市長から認定された「自主防災会」を結成することができたのです。

 「防災会」活動のひとつとして「栄公民館緊急時連絡表」を作成し、いざというとき住民同士がお互いに助け合い、協力して自分たちの命を守るシステムを作り上げて行きます。また、2011年3月11日の東日本大震災を契機に、栄集落の「ハザードマップ」と「避難所マップ」づくりもしています。ひとり暮らしの高齢者がどこに住んでいるかを示す地図も作成したのです。

 その際、関係諸機関への協力と支援を呼びかけた小村さんが作成した「要請書」には「自主防災会」におけるそうした活動の必要性が次のように主張されていました。「地球は人間の皮膚のように一枚皮であると思います。地球上のどこかで起きた災害は決して他人(ひと)事ではありません。ましてやそれが日本国内のことであれば『自分とは関係ない』『ここは大丈夫』などの考えはあってはならないことです」と。阪神・淡路の大震災を経験した小村さんのことばだからこそ、この主張は地域の人たちの心を動かすものとなったのではないでしょうか。

 消防団に入団したいという願いも諦めていたわけではありませんでした。石垣市の当局や消防に入団年齢上限の制限の撤廃を働きかけていたのです。そしてついに、2011年1月に消防団に入団することができたのです。

 小村さんのこうした防災に関する活動は、居住集落にどのような影響をもたらしたのでしょうか。実は、災害に備える地域づくりの中で単に防災だけのことだけでなく、「集落全般にコミュニケーションがある」ようになっていったといいます。防災の訓練などでは、「住民同士が安否を確認し、高齢者・弱者に対し『気を配る』ように」もなっていきました。

 防災会ができた年の9月には、「数十年ぶりの敬老会」が復活し、翌年の1月には「小学生ら約70人が参加」(琉球新報記事)した餅つき大会が開催されました。小村さんによれば、「その他、多数の住民の『ゆいまーる』をみることがある」そうです。社会学ではそうした光景に象徴される人々の生活関係づくりをコミュニティ創造と言います。

 小村さんは、自分の痛切な体験から、自然災害に立ち向かい、自分たちの命を守るには、自助、共助、そして公助の「三本柱」がぜひとも必要なことであると実感していたと言います。栄集落における災害に備えた集落づくりとは「『共助』の始まり」に他ならなかったのです。こうして、いつ起こるかわからない自然災害から地域の人たちの命を守りたいという小村さんの思いが、結果として栄集落のコミュニティ創造につながっていったと言えるのではないでしょうか。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン