シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

絶望を抱えて

 小村義信さんの人生の歩みは、はじめ順調そのものだったのではないかと思います。小村さんは、1961年生まれ、兵庫県神戸市の出身です。大学は近畿大学工学部。建築学科で設計を学び、1984年に卒業しています。卒業と同時に、南カリフォルニア大学に留学し、構造学を学んだといいます。

 1986年に、大阪府建設局に入局し、設計管理の仕事をしていました。1988年には、当時の建設省に入省し、建築指導にあたっていました。そして、1991年に独立し、設計事務所を設立します。主に橋・橋梁の設計に従事していたといいます。結婚もし、長男も生まれ、家族生活も築いていたのです。

 こうした小村さんの順調な人生の歩みに悲劇が襲いかかります。それは1995年1月に起きた阪神・淡路大震災でした。

 小村さんは、この大震災で、家族親戚、合わせて17名も亡くしました。奥さんと奥さんの親戚を含めると、27名の近親の方々を、一瞬にして失ってしまったというのです。しかも、そのとき小村さんが経験したことは非常に過酷なものだったのです。その体験について、琉球新報の取材に次のように証言しています。非常に辛い話となるのですが、そのとき小村さんがどのような精神的状況におかれることになったのかを確認するために、その証言を引用させていただきたいと思います。

 「小村さんは、職場近くの大阪に借りたマンションで、強い揺れで目覚めた。兵庫の自宅や実家に駆け付けると、『みんなゲシャッとつぶれていた』。

 震えの止まらない体を押さえながら、がれきの中から父の遺体を引っ張り出した。腕がなかった。『指1本まで見つけたい』と探し続けると、次から次へと遺体が出てきた。

 3歳の長男も左腕がもげていた。出血が止まらないが救急車も来ない。『父さんの血を吸え』と自分の手をかみちぎったが、息子は腕の中で息を引き取った」(琉球新報記事)。

 そのときの小村さんの気持ちと精神状態がどのようなものであったのか、私には想像することができません。ましてやことばで表現することはとてもできそうにありません。ただ小村さんの話を聴きながら、大震災によって引き起こされた悲劇的な出来事によって、生きていくためのハリというものが大きく損なわれてしまったのではないかと感じました。

 私たちの人生を豊かにし、日々生き生きと生きていくために重要なのは私たちの感情生活です。このことをとくに主張したのが、社会学の分野では、スコットランドの社会思想家、ジョン・マクマレーでした。マクマレーによれば、感情こそが私たちを取り巻く世界の固有の価値を認識する力を与えてくれ、生き生きと生きる力を成長させてくれるのです。しかも重要なことは、その感情生活が豊かになるには、他者との共感にもとづく豊かな感情交流が不可欠なのです。

 阪神・淡路の大震災により、ご家族を含む近親の、とても大切な人たちを、一挙に、しかも過酷な状況で失ってしまったことは、小村さんの感情生活に大きな打撃をもたらしたのではないかと推測せざるをえませんでした。小村さんの感情は本来の働きを止めてしまったのではないでしょうか。回りの世界は一変して、豊かな色彩を失い、色あせてしまった世界に見えてしまうようになっていたのではないかと推測されます。それだけでなく、小村さんには生きる力も喪失してしまいかねない状況にもなっていたかもしれません。

 震災直後は悲しむ間もなく大切な人たちの亡骸を探し出し、安らかに眠ってもらうために埋葬するために奔走する日々をおくっていたのですが、それらが終わると、否応なく自分が全くの独りとなってしまったことを感じざるをえなかったといいます。そのため、そのときは、「これからどのように暮らしていけばよいのか全くわからない状態になってしまった」のだそうです。

 小村さんはそうした状況をどのように乗り越えていったのでしょうか。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン