シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

僻遠と言われるような地で生き生きと生きている人に出会う旅に出よう

 確実で、安定的な安全感・安心感を期待することができる「人間の居場所」という視点で見ると、現代社会では、家族も地域社会ももはやそうした居場所たりえなくなってしまっていると言われてきました。家族においても地域社会おいても、それらの社会の社会関係の特質であった、メンバー相互でお互いを大切な存在として認知し合い、親密な感情によって結ばれ、日常生活の中で支え・支えられる互恵性と協力・協働する共同性が消失してしまったのです。家族および地域コミュニティの解体と社会学の分野では呼ばれてきた事態です。

 ただし、家族・地域コミュニティの解体と言っても、その内実は上述のような人々の間の社会関係の在り方の変容なのであって、家族や地域コミュニティそれ自体は存在しています。そして、家族・地域社会における社会関係の有していた支配・束縛・抑圧という社会的性格はなお存続しているのです。しかも条件によっては、その社会的性格が強まっているという場合があります。家族に関して言えば、児童虐待やドメスッテク・バイオレンスというような暴力的な極端な形をとってその性格が現れるというのがそうした例となろうかと思います。

 一般的に言えば、支え合いと分かち合い、協力と共同性・協働性という側面と支配・拘束・抑圧性という同じコインの両面における真逆の社会的性格の共存ということは、あらゆる社会が有している存在様式です。どのような条件のときに、それらの社会的性格が、どのような姿をとって現れるのかを探求することも社会学の大事な研究課題となってきました。地縁にもとづく社会もどうようの二重的性格をもっています。そして個人化の進む現代社会においては、支配・拘束・抑圧という社会的性格が強く感じられる状況が、社会的または個人的に現れることがあるのです。

 例えば見知らぬ土地へ移住するような場合にそうした社会的性格を実感するということがあるようです。とくに相互無関心社会の中で自由気ままに自分の思い通りに生きることを可能としてくれる都市的社会から、なお社会的付き合いがそれなりに存在している「田舎」社会への移住をした場合などにそうしたことを感じるようです。清泉亮さんの『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』には、そうした田舎移住の「落とし穴」への対処の仕方が詳しく紹介されています。

 清泉さんは言います。とりわけ過疎の僻遠の地においては、「どの集落にも子供会から婦人会、青年部、消防団、老人会、さらには各地で呼び名を違える、カネを融通しあう『講(こう)』に『無尽(むじん)』『結(ゆい)』と、それぞれの構成員を重ねつつ、多重多層な任意団体があらゆる住人を網羅している。町内会の束縛や臭いが薄くなり、人の移動が激しく流動性の強い都会では想像もできない団体主義、全体主義が現在でも年齢層を問わずに徹底しているのが地方の生活である」のですと。

 その結果そうした地方での生活には思わぬ「落とし穴」があると言います。「住めば都――。日本ではそんな言われ方があるが、それはあくまでも本人の心の持ちよう次第であって、本質は、住めば地獄、であることさえ少なくない。むしろそのほうが多いだろう」と思われますと。

 そうした清泉さんの田舎暮らしのアドバイスを読んでいると、それは単に田舎暮らしのアドバイスということを超えて、現代社会における生き方指南なのではないかと感じました。すなわち、現代社会を生きていると、できるだけ他者との深いつながりを避け、何時でも撤退し、離れることのできる逃げ道をつくっておく生き方を避けて通れないのだなと感じた次第です。

 だとすると、団体主義・全体主義生活様式であると言われる過疎の僻遠の地で暮らしている人々は、どのような生活をおくっているのでしょうか。そこでは、ただ自分をあまりださないようにし、それを耐え忍ぶだけで、あまり生き生きと生きている人はいないのでしょうか。しかしもし、生き生きと生きている人たちがいるとするならば、どのようにして生き生きと生きることを可能にしているのでしょうか。それらの問いに対する答えを見つけるフィールドワークの旅を続けたいと思います。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン