シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

エンゲルスさんの「イギリスにおける労働者階級の状態」を読む(7)

 だれが、どのようにして資本主義社会の形成原理である「自由競争」を廃絶していくことができるのか、そしてその過程はどのような道筋をたどることになるのか、ということに関してエンゲルスさんは何も示してくれていません。

 それは、労働者階級の人たちがやっと自分たちの組織化を行ってブルジョアジー階級への抵抗運動を開始したばかりの時期で、上記の問題は具体的な日程に上ってはいないということからなのでしょう。

 同時に、エンゲルスさんは、労働者階級の人たちが政権の奪取に成功するならば、比較的簡単に「自由競争」を無くすことができるとも考えていたからなのではないでしょうか。それは、個々の使用者に対する労働者の戦いについての文脈の中なのではありますが、少なくとも労働者間の「競争」に関しては、労働者たちの決意次第で廃絶できると考えていたものと推測できるのです。エンゲルスさんは、そのことに関して次のように主張しています。

 「労働者間の競争が妨害され、もはやブルジョアジーには搾取されないと全労働者が決意すれば、それで所有の帝国はおわりである。たしかに労賃は、これまで労働者が売買される物としてあつかわれるままになっていたからこそ、需要と供給に、労働市場の偶然的な状態に、依存しているのである。労働者がもはや売買されはしないと決断するならば、そもそも労働の価値とはなにかということを決定するにあたって、労働力のほかに一つの意志をもまたもつ人間として登場するならば、こんにちのすべての経済学と賃金法則はおわりである」はずなのです。

 しかも、労働者の人たちは、その決断を、「必要にせまられて、彼らは競争の一部だけでなく、競争そのものを放棄する」ようになるのですと。「そしてまさしく彼らはそうするであろう」と予測できるとも主張しています。

 しかし、エンゲルスさんがそのように予言して以降これまでの歴史を見てくると、「自由競争」を廃絶するということがそれほど簡単な事業ではないことが分かります。それは、個別の使用者に対する闘争においてさえ、労働者の人たちが団結しつづけることがいかに難しいことかということからも言えるのではないでしょうか。

 また、社会主義を標榜する国々においてさえ、「競争」を無くすことができていません。さらに、現在私たちが生きている世界は、まさしく「自由競争」至上主義の嵐が吹き荒れているグローバル化社会なのではないでしょうか。

 それだけではありません。ロシア、中国、そして北朝鮮の国々を見ていると、エンゲルスさんが考えてもいなかったような、冷酷で、激しい「競争」が日々戦われているように思います。それは、一つは、グローバル社会における覇権闘争という「競争」です。そして、二つ目は、社会主義国における支配階級の存在と、それらの人たちが支配階級でありつづけるための権力闘争という形の「競争」です。

 このような事実を見ていると、社会における「競争」という性格は、単に資本主義社会に固有の時代的性格ではなく、そもそも人間の通時的な性格にも根差しているものであると捉えなければならないように思えます。

 さらに言えば、宮沢さんが自分の死の直前まで、考えつづけ、祈り、願ったこととは、この世に存在するすべてのものの間にある「競争」や「闘争」をどのように捉え、どのように無くしていったらよいのだろうかという問題ではなかったかと思います。

 このことについては、またあらためて考えていきたいと思います。ここでは、資本主義社会における「自由競争」の下での資本家によって酷い状況に陥ってしまっている労働者の人たちの生活改善のためのさまざまな社会的動き、宮沢さんが描いた「ポラーノの広場」の世界もそのことに連動しているのではないかと思うのですが、それらの動きをエンゲルスさんはどのように捉えていたのだろうかということについてさらに確認していこうと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン